2011年08月26日

済州島紀行-抗蒙遺跡址-41

つづき

済州島3日目の朝も、早くにすっきりと目が覚めた。快晴だ。名残惜しいがこの日の午後のフライトで釜山に帰る。6:40頃にゲストハウスを出て 「항몽유적지(抗蒙遺跡址)」 へと向かう。ここは約700年前、モンゴルの侵略軍に対抗し国を守るために決起した高麗最後の抗蒙勢力 「삼별초(三別抄)」 が、最後まで抗争し壮烈な戦死を遂げた遺跡址だ。

三別抄は高麗の朝廷が蒙古軍と講和するとこれに反対し、モンゴルの侵略軍を退けようと独自に抗蒙活動を続けた。三別抄は新しい政府をたて、江華島から珍島へと根拠地を移しながら抗争したが、珍島も高麗・蒙連合軍の攻撃で陥落。

その後、김통정(金通精)将軍旗下の三別抄軍は、済州島に渡って항파두성(缸坡頭城)を築いた。高麗・蒙連合軍と戦った最後の抗争地である。

三別抄軍が築いた缸坡頭城は15里(1里は約393m)にわたる土城と、その内側には二重の城郭が築かれた。城内には宮閥や官衛施設まで整った要塞であったが、今では土城だけが残っているそうだ。

抗蒙遺跡址には7:25に到着。開館は9時なのでまだ入場券売り場は閉まっているが、敷地内には自由に入れるようだ(敷地内にある展示館は閉まっているので入れない)。門には 「순의문(殉義門)」 の文字(▼)が。

済州島紀行-抗蒙遺跡址-41

門の目の前には立派な木が植えられている(▼)。

済州島紀行-抗蒙遺跡址-41

そばに案内板が立っているので近寄ってみると、案内板の内容はこの木についてではなく、そばの地面に置かれた10個の石についてだった(▼)。石にはそれぞれ丸い穴が開けられている。

済州島紀行-抗蒙遺跡址-41

石の名前は 「돌쩌귀(戸の肘金と肘壺)」。これら10個の石はその昔、三別抄の金通精将軍が缸坡頭城を築き東西南北の四大門を建てたとき、その肘金と肘壺 (*) として使われたものとして知られている。

ところが当時の城門の規模がはっきりしておらず、この石が果たしてその時の肘金と肘壺なのかは明らかではない。しかしながら、これらが建築物に利用されたのは確実なので、缸坡頭城に伴う遺跡物の一つとして保存されているそうだ。缸坡頭城の遺跡地を整備するにあたり、周辺に散らばっていた石10個を集め、ここで保存しているのだそう。

(*) 肘金(ひじがね)とは戸の開閉に用いる金具。肘形に曲げて作って開き戸の枠に取り付け、柱にある肘壺(ひじつぼ)にさし込んで蝶番のような役をするもの。

門をくぐるとまっすぐ通路が伸び、左右にはたくさんの木々が植えられている。緑が多い。

済州島紀行-抗蒙遺跡址-41

通路の突き当たりには 「殉義碑」 がある(▼)。敷地内にはこの抗蒙遺跡址に関する説明が、韓国語や日本語・英語などで放送されている。

済州島紀行-抗蒙遺跡址-41

殉義碑から正面門の方を見たところ(▼)。

済州島紀行-抗蒙遺跡址-41

つづく


同じカテゴリー(済州島)の記事

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
済州島紀行-抗蒙遺跡址-41
    コメント(0)