2013年07月17日

温泉川~水営江~水営湾へ 3

つづき

안락교(安楽橋=アルラッキョ)の上から、東莱方面をのぞむ(▼)。


反対の水営江(スヨンガン)方面を見たところ(▼)。このあたりから川のすぐ横に整備されていた遊歩道はなくなり、川面から少し高いところにウッドデッキが設置されていた。全区間ではないが、ウッドデッキも歩行者と自転車の通行が区分けされていた。


やがて、温泉川(オンチョンチョン)が水営江に流れ込む部分にやってきた。この高架をくぐると水営江にぶつかる(▼)。


川の合流部分。写真右手の橋桁の右側から流れてくる温泉川が、水営江に流れ込んでいる(▼)。写真奥が水営江の河口方面。


水営江の上流方面(▼)。この辺りから、雨がポツポツ降り始めた。


水営江沿いの土の散歩道を歩く。地面に埋め込まれている石や木は、足つぼを刺激するためのもの(▼)。靴を脱いで利用する。けっこう痛い。


自転車やバイクは通行禁止。安心して歩ける。


何故そう名付けられたのかは分からないが、「幸せなトンネル」(▼)。


水営江河口方面(▼)。見えているのは左水営橋(チャスヨンギョ)。河口から3番目に架かる橋。


釜山国際映画祭の専用館 「映画の殿堂」 と、その向こうに新しいKNNの社屋(▼)。


映画の殿堂のちょうど向かい側にあたる部分には広いウッドデッキが整備されている(▼)。映画の殿堂が建てられた当初(2011年)はまだなかった。


隣接して建つ新世界(シンセゲ)百貨店(右)と、ロッテ百貨店(▼)。


河口方面の水営江と、河口から2番目に架かっている水営橋(スヨンギョ)(▼)。河口に一番近い橋は水営2号橋。


東莱駅から温泉川沿いに歩き始めてこの辺りまでで7.6km。遊歩道のおかげで快適に歩けた。ここからさらに家まで海沿いを歩いて行こうかと思っていたが、雨がけっこう降ってきたので断念。ここから先はバスで帰った。
  

Posted by dilbelau at 08:46Comments(0)東莱・金剛公園

2013年07月16日

釜山の清渓川? 2

つづき

温泉川の水はまずまずきれいで、イヤな臭いもしない。川沿いに遊歩道を整備して市民が散歩できるという点では、“釜山の清渓川”(チョンゲチョン)かな。


川沿いの遊歩道。赤が自転車、緑が歩行者用の通路(▼)。自転車で通る人もけっこう多い。私たちが釜山で暮らし始めた2008年当時と比べると、自転車に乗る人の数はかなり増えたと思う。スポーツとしてのサイクリングが流行になったことや、各地で自転車道が整備されたことが大きく影響しているのだろう。


川辺には緑が多く、花々もきれいに咲いているので目の保養にもなる。植え込みで文字を作っている(▼)。「얼쑤 동래」(よいやさー東莱)と書いてある。


수국(水菊=アジサイ)の群生。花は小ぶりだがたくさん咲いていた。



접시꽃(チョプシコッ=タチアオイ)。


カンナ(▼)。


왕원추리(ワンウォンチュリ=ヤブカンゾウ)(▼)。


一瞬、野菜の畑かと思ったが、よく見ると一部コスモスの茎が伸びてきていた(▼)。いずれは花畑にするのだろう。


川辺にはところどころ運動器具が設置されており、市民が熱心に運動していた。


将棋に夢中のおじさんたち(▼)など、思い思いの週末を過ごしていた。




つづく  

Posted by dilbelau at 17:15Comments(0)東莱・金剛公園

2013年07月16日

温泉川ウォーク 1

おいしいサムゲタンを食べて、かなりおなかいっぱいになったので、腹ごなしも兼ねて温泉川(オンチョンチョン)沿いを歩いて家まで帰ってみることにした。釜山都市鉄道1号線の東莱(トンネ)駅から、川沿いの遊歩道に下りて歩き始めた。夫がハーフマラソンの練習に何度か利用したコースだ。

川の両側に遊歩道が整備されており、非常に歩きやすい。歩行者用の通路と自転車用の通路が区分されており、人々はおおむねそれを守って通行している。



コバギボウシの群生(▼)。



「動物保護区域」 と書かれたエリアには、アヒルや鴨がたくさんいてガーガー、ガーガーと賑やかに鳴いていた。小学生くらいの男の子が、草を手に持って後方からアヒルにそっと近寄り驚かせようと(?)していたら、それを見かけた通りがかりのおばあさんに 「ヤー!!」(おい/こら)と注意されていた。

日本では他人の子どもに何か注意したり叱ったりすることが少なくなったが、韓国では今でも自分の子・他人の子関係なく、かわいがりもするし注意もする。特におじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん。



川の本流から少しそれた水がよどんでいるところで、フナの集団を見かけた。どれもじっとして動かない。



川にはところどころに飛び石があって、左右の川岸を行き来できるようになっている。


세병교(洗兵橋=セビョンギョ)(▼)。洗兵橋の 「洗兵」 とは兵器を水で洗うという意味で、戦争が終わり平和が戻ってきたことを表している。文禄慶長の役などの大きな戦いの後、東莱邑城南門前の温泉川の水で、血がついた兵器をきれいに洗った場所だったとされる。


洗兵橋の近くには、KORAIL(韓国鉄道公社)の東海南部線が走っている。ちょうど列車が通って行った(▼)。


つづく  

Posted by dilbelau at 08:25Comments(0)東莱・金剛公園

2013年01月17日

軍将官の執務所

東莱(トンネ)にあるナクチポックムの名店 「소문난 원조 조방낙지」(ソムンナン ウォンジョ チョバンナクチ)の向かい側に、なにやら由緒のありそうな建物が建っている。随分古びた建物のようだ。前回来たときから気になっていて今回は近づいて見てみたが、門が施錠されており中には入れなかった。



「財団法人東莱耆英會」・「耆英堂」・「東莱宋公壇享祀禊」などという文字が並ぶこの門の内側には、釜山広域市有形文化財第8号に指定されている 「장관청」(将官庁=チャングァンチョン)」 があるそうだ。以下、文化財庁HPより。
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この建物は朝鮮後期、東莱府の庁舎の1つで、この地の軍将官の執務所だった。東莱府は日本と隣接している国防上の要衝地で、1655年に「独鎮」(独立した軍営)に昇格した。軍事上の地位が強化されるに伴い、軍官の機関が設置された。釜山の警察と軍事的な属僚に 「軍校」(将官・軍官・捕校)がある。

1669年に東莱府使 「鄭晳(チョン・ソク)」 が創建した後、朝鮮第19代王 「肅宗(スクジョン)」 の時代に2度再建された。1706年に東莱府使 「黄一夏(ファン・イルファ)」 が、郷庁があった現在の場所に移した。

建物の様式は正面7間、側面2間の 「ㄱ」 字形で、 屋根は八作屋根。

この建物は、この地方に残っている朝鮮後期の官庁の建物として、当時の建築様式をうかがうことのできる価値あるものだ。しかし度重なる構造改造による変形が激しく、1998年に全面解体・復元された。現在は 「東莱耆英會」 が管理・使用している。

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「東莱耆英會」 は1846年、東莱の武庁と作庁の退任者(50歳以上)によって設立された団体。中国の故事に習い、地域の老人たちの親睦団体として誕生したとされる。



この周囲は飲食店や市場などが立ち並ぶいわば繁華街で、そんなところに歴史的な建物があるとは意外な感じがする。それだけ東莱が歴史の長い地なのだと、あらためて感じさせられた。門が開放される機会があれば是非門の中の 「将官庁」 も見てみたい。  

Posted by dilbelau at 08:52Comments(2)東莱・金剛公園

2012年11月22日

千字文

非常においしいナクチポックムをいただいた後、私たちはホシムチョン(虚心庁)へ向かった。都市鉄道(地下鉄)トンネ(東莱)駅からオンチョンジャン(温泉場)駅まで2駅だが、オンチョンチョン(温泉川)沿いに整備されている遊歩道を歩いていくとあっという間に到着する。ちょうど季節がいいので散歩するにはもってこいだ。

川沿いの遊歩道にはバスケットコートや自転車道も整備されており、多くの市民の姿を見かける。川には鴨やアヒルの姿も。

遊歩道の一角には、地面のタイルに 「千字文」 が埋め込まれていた。千字文とは、子どもに漢字を教えるために用いられた漢文の長詩。





“天地玄黄” から “焉哉乎也” に至るまで、天文や地理、政治、経済、社会、歴史、倫理などの森羅万象について述べた、4字を1句とする250個の短句からなる韻文。全体が脚韻により9段に分かれており、全て違った文字で1字も重複していないそうだ。



朝鮮には中国から仏教と共に入り、漢字が朝鮮語において普及する際に使用され始めたとのこと。どの漢字の下にも、その漢字の意味と読み(音)が記してある。「朝」 の下には 「아침 조」、「問」 の下には 「물을 문」 など(▼)。



散歩中らしき市民らも、立ち止まって興味深そうに見ていた。



また、千字文の脇の壁には、昔のトンネの風景写真をプリントしたタイルがはめこまれていた。1950年(朝鮮戦争勃発年)、避難民が青空教室で授業を受けているところ(左▼)と、1960年代の女学校の授業風景。



1890年代の 「東莱郷校(トンネヒャンギョ)」 の学習風景(左▼)と、1920年代の 「書堂(ソダン)」 の風景。いずれも現代の学校の前身だ。



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Posted by dilbelau at 08:52Comments(0)東莱・金剛公園

2011年11月07日

東莱スパトピア

「虚心庁」 を出て、タクシーをつかまえようと歩いていると、「東莱スパトピア-温泉理想郷」 と書かれた足湯を見かけた。



この道を通るのは初めてなので、いつからこの足湯がここにあったのか分からないが、まだ比較的新しそうな雰囲気だ。入ってすぐのところには靴のロッカーがあり、湯気が上がっている奥の足湯場はたくさんの人が利用していた。



近くの금정산(金井山)へ登った帰りだろうか、登山スタイルの人も何人か。無料で利用で利用でき、歩きつかれた脚を休めるにはちょうどいい場所だろう。

東莱スパトピア
利用時間:3~10月-10~17時
       11~2月-11~16時
定休日:毎週火曜日、7月20日~8月20日および1月1日~1月31日、旧暦の正月・盆、雨天・悪天候時
  

Posted by dilbelau at 21:09Comments(0)東莱・金剛公園

2011年11月06日

温泉川に沿って

일신초밥(イルシン(日新)チョバプ)」 でおいしいサワラをいただいて店を出た私たち。この日は夕方、東莱文化会館で開かれるギターのコンサートに行く予定だったが、それまでまだ時間がたっぷりあったので、夫の提案で久しぶりに허심청(ホシムチョン=虚心庁)に寄っていくことにした。

地下鉄1号線の東莱駅から温泉場駅まで、温泉川に沿って整備されている遊歩道を歩いて行く。地下鉄の高架の下、温泉川の両サイドには歩行者、自転車用の道が整備されており、散策する人も多い。



バスケットコートやインラインスケート用のスペースもある。







先日、明倫駅から温泉場駅まで歩いたが、その時よりこの日の方が距離は長いのに、川の流れや草木を見ながら歩いたせいか、この日の方が早く到着したように感じられた。











20分ほどで温泉橋に到着。



  

Posted by dilbelau at 21:17Comments(0)東莱・金剛公園

2011年10月21日

アートストリート

大綱引き大会の会場を後にして、近くにある足湯で休憩しましょうと行ってみたら、湯は入っておらず、本来湯が入っている場所にテーブルが据えられていた。この日は大綱引き大会のため、足湯を休止していたらしい。



すぐそばでは露天で飲食物が売られており、それを買った人がそのテーブルで飲んだり食べたりしていた。



ちなみに普段の足湯の営業時間は、10~17時(3~10月)、11~16時(11~2月)。毎週水曜日定休、1月1日~31日と7月20日~8月20日、旧暦の正月・盆、悪天候時は休み。

久しぶりに来たら、この辺りも随分変わっていて驚いた。ちょっとした水路が整備され、雰囲気が明るくなっていた。「스파윤슬길(スパユンスルギル)」(温泉さざなみ通り)と書かれているが、「スパシティー」 という名前もあるようだ。





水路のそばには似顔絵描きの人が何人も並んでいた。







母子で似顔絵を描いてもらっているのだが、子供はじっとしているのが退屈なようで、嫌がって身体をよじっていた(▼)。



水路沿いの塀には、昔の東莱の写真などが展示されていた(▼)。





この通りは 「온천장 예술의 거리(温泉場アートストリート)」 とも呼ばれ、毎週水曜日の16~18時には似顔絵描き、18~19時にはストリートライブが行われるとのこと。特に資格などは不問で、誰でも自律的に似顔絵描きやライブを行っていいのだそうだ。一応 「水曜常設公演」 となっているが、上記以外の時間でも構わないのだそう。  

Posted by dilbelau at 21:10Comments(0)東莱・金剛公園

2009年11月01日

'09.11.1(日)慈乳泉

つづき

禹長春記念館の前には、「慈乳泉」 がある。
これは、当時水が不足していた研究所と住民のために、禹長春博士が直接作った井戸なのだそうだ。
慈しみ深い母の乳のような泉、という意味で名づけられたそうだ。





  

Posted by dilbelau at 08:48Comments(0)東莱・金剛公園

2009年10月31日

'09.10.31(土)彼にとって祖国とは・・・

つづき

写真パネルを見て回っていると、それまで私が持っていた彼の人物像とは違ったイメージの姿も思い浮かんできた。

↓↓ 1950年、韓国に 「帰国」 する直前に日本で撮った家族写真。



↓↓ 「帰国」 時、港で大歓迎を受ける様子。



↓↓ 韓国の農業試験場で稲の苗を植える禹長春(우장춘)さん。



↓↓ 亡くなる前々日、病床で大韓民国文化褒章を受章する。



↓↓ 亡くなった後、お焼香をする夫人。



↓↓ 彼の死を伝える新聞記事。現在は横書き・ハングルのみ(ごくたまに漢字)で書かれている新聞だが、当時はまだ縦書きで漢字・ハングルまじり。



↓↓ 大勢の人が参列している、彼の葬儀。社会葬だったそうだ。遺体は農村振興庁内の麗妓山に埋葬されたのだそうだ。



私がそれまで持っていたイメージでは、父親が韓国人であるとはいえ母親は日本人で日本で生まれ育ち、日本人の妻と結婚して日本で6人の子供と幸せに暮らしていたところに、突如、食糧不足で苦しんでいる国民のために力を貸して欲しいと韓国政府から要請を受け、妻子を残して渡韓。朝鮮戦争に巻き込まれ、母の訃報を知り日本へ戻ることを望みながらも叶わず、家族と離れたまま韓国で亡くなり、さぞや無念だっただろうと想像していた。

しかし、先の記事にも書いたように、幼少時を過ごした施設で、からかわれながらも朝鮮人であるというアイデンティティーを捨てずにいたこと、論文発表などの際には、日本名の 「須永長春」 ではなく 「禹長春」 という名前を使い続けたことなどを見ても、彼の中では父の祖国である韓国が、自分にとっても祖国であるとも感じていたのかもしれないと、ふと思った。

この記念館では一貫して 「韓国人・禹長春」 として紹介されていた。

韓国人である父の血と日本人である母の血を半分ずつ受け継ぎ、日本で52年、韓国で9年を過ごした彼は、どのように感じていたのだろうか。
いわば2つの祖国を持ち、日本では愛する家族に囲まれ、韓国では国をあげて歓待され 「キムチの恩人」「韓国近代農業の父」 とたたえられた彼。記念館が面している道路は 「禹長春路」 と彼の名をとって名付けられている。

彼にとっての祖国とは、アイデンティティーとは、一体どんなものだったのだろう・・・。

禹長春記念館
釜山市東莱区長春2路5
(051) 550-4478 FAX (051) 556-6525
開館時間 9:30~18:00
定期休館 毎週月曜日、公休日の翌日、1月1日、陰暦の正月、陰暦のお盆


つづく  

Posted by dilbelau at 21:54Comments(2)東莱・金剛公園

2009年10月31日

'09.10.31(土)写真で見る禹長春さん

つづき

우장춘(禹長春)さん=日本名・須永長春さん。
記念館の中にあるたくさんの写真の説明書きや、8分ほどの彼の業績をたたえるビデオなどを見て回るうち、私が以前日本のWikipediaで読んだ彼の生涯と、この記念館で紹介されている彼の生涯とは、印象が随分違うことに驚いた。

↓↓ いろいろな年代の彼の顔写真。



↓↓ 1950年3月8日、韓国政府の要請を受けて、妻子を日本に残して韓国の地を踏んだ禹長春博士。
写真の説明書きには 「禹博士 帰国歓迎大会の様子」 と、「帰国」 という文字が使われているのが、私には非常に印象的だった。

大変な歓迎を受けているのが見て取れる。



Wikipediaで見た限りでは、

日本で日本人と結婚し子供も6人生まれたが、1948年大韓民国樹立後の混乱の中、食糧不足で国民が苦しんでいた時期に 「今の韓国に来て種子の問題を解決してくれる人は禹長春しかいない」 という韓国政府の要請を受け、1950年52歳のとき、妻子を日本に残して単身渡韓した。

翌1951年朝鮮戦争が勃発。1953年には日本にいる最愛の母が亡くなったとの知らせを受け、日本への帰国を大統領にまで嘆願したが許されず、韓国へ渡って9年後の1959年、二度とは日本の土を踏むことなく病のために韓国で亡くなった。

と、「帰国」 ではなく 「渡韓」 し、以後二度と日本にいる家族に会うことも、日本の土を踏むこともなく韓国で亡くなり、さぞ日本へ帰りたかっただろうと想像していた。

だが、記念館で紹介されている彼の様子を見ていると、また違った見方もあるのだということを感じた。

つづく  

Posted by dilbelau at 19:39Comments(0)東莱・金剛公園

2009年10月31日

'09.10.31(土)研究室

つづき



館内で上映されるビデオによると、韓国人の父と日本人の母の間に生まれた禹長春(우장춘)さんは、幼少時、家庭の厳しい経済状況のため、一時期施設に預けられていたそうだ。

施設内では、朝鮮人だとからかわれることもあったが、それに屈することなく自分は朝鮮人であるという姿勢を貫きとおしたのだそうだ。

また、学業に秀でていて成績も抜群によかった彼は、大学の工学部への進学を望んだが、朝鮮人であるということを理由に入学が許されなかったのだそうだ。そのため、工学部ではなく東京帝国大学の農学部へ進学し、結果的にその道でも才能が開け、論文「種の合成」により農学博士号を取得したのだそうだ。

もし希望通り工学部へ進んでいたとしたら、勿論その道でも活躍していただろうが、その後の韓国の窮状を救い 「韓国近代農業の父」 とたたえられるような農学上での活躍は恐らくなかったであろう。

↓↓ 彼の研究室の様子。
顕微鏡やたくさんのプレパラート、黒電話などが見える。



↓↓ 直筆の原稿。



↓↓ 1階展示室。



↓↓ 2階展示室にも、たくさんの写真パネルや、



↓↓ 彼が研究していた 「種の合成」 の理論などが、図解・模型などを用いて説明されている。



つづく  

Posted by dilbelau at 14:15Comments(0)東莱・金剛公園

2009年10月31日

'09.10.31(土)「キムチの恩人」 に会いに

あれはいつ頃だっただろうかと、「キムチの恩人」 というキーワードで自分の過去記事を検索してみる。
なんと、5月28日。もう5ヶ月も前のことだった。

Sオンニが持ってきてくださった大きなスイカに種がほとんどなかったことから、オンニに教えてもらった 「우장춘(禹長春)」 というある人の名前。オンニは、種なしスイカを発明した有名な人だと教えてくれた。

その後調べてみると、韓国人の父と日本人の母の間に日本で生まれた우장춘さん。日本名は須永長春さん。
農学博士であり、生涯を農学の研究・発展のために捧げた人だそうだ。

実は種なしスイカは、研究の過程で人々に育種学とは何かを知ってもらうために作ったもので、もともと発明したのは別の人だったそうだ。

さて、彼が何故韓国で有名な農学者だったかというと、朝鮮戦争後の混乱期、韓国人にはなくてはならないキムチを作るための白菜や大根などの種子を韓国で大量生産したことから、「キムチの恩人」 あるいは 「韓国近代農業の父」 と称えられているのだそうだ。

そんな彼の記念館が東莱にあると知り、いつか行ってみたいと思いつつ、なかなか行くタイミングがなかったのだがやっと先日訪ねてみることができた。



建物の正面には、彼の胸像。↓↓
胸像の横の案内板には、韓国語・英語・日本語の説明が。

「この記念館は、韓国の園芸発展に大きく貢献した禹長春博士の業績を記念するため、博士が研究活動したゆかりの地に建てられた。
 禹長春博士は種(しゅ)の合成を実証した論文 「白菜属作物のゲノム(Genom)分析」 を発表した世界的な学者として日本で活動した。日本の終戦後帰国し、国立園芸特作科学院の前身である韓国農業科学研究所の初代所長に就任、卓越した育種知識と技術を生かして韓国での園芸発展の礎を築いた。
 この記念館を通じ、禹長春博士のたゆまぬ研究精神と育種学に対する世界的な業績を永遠にたたえる。」



入り口を入ると、韓国語の他に英語や日本語・中国語で書かれたリーフレットが置いてあり、彼の年譜や当時の写真などが目に入る。

それほど大きくはない建物だが、1階・2階に彼にゆかりのある品々や写真パネルがたくさん展示してある。

つづく  

Posted by dilbelau at 10:33Comments(0)東莱・金剛公園

2009年05月03日

'09.5.2(土)週末の大学街

「温泉川」 沿いの遊歩道をしばらく散歩し、やがて 「釜山大学前駅」 に出た。もともと賑わっている大学街だが、週末なのでいつもにも増してすごい人出。

人、人、人の波…。



天気のいい週末でもあり、大学生たちにとってはちょうど中間試験も終わってほっとしている時期でもあり、大勢の学生たちが繰り出しているのだろう。

ちょっと細い筋に入ると、若者向けの洋服を売る店がずらりと並ぶ一角。間口の狭い小さな店がひしめき合うように並んでいて、細い路地も入り組んでいる。ちょっとした迷路のようなファッションのエリアだった。

ものすごい活気にあふれていた。  

Posted by dilbelau at 16:59Comments(0)東莱・金剛公園

2009年05月03日

'09.5.2(土)温泉川の散歩道

結婚式会場を後にし、バスに乗って帰ろうと夫と最寄駅まで歩いて行ったが、ちょうど線路と並行して流れる川沿いに整備された遊歩道が目に入り、お天気もよかったのでその遊歩道を少し散歩してみることにした。

この線路、地下鉄1号線の一部だが、ある部分から地下を走っている線路が地上に出て走るようになっている。その高架の下を 「温泉川」 と呼ばれる川が流れていて遊歩道が整備されている。



規模は全然違うが、ソウルの 「清渓川」 を連想させるような感じ。

遊歩道は、自転車が走るスペースもあり、また歩行者やジョギングする人の足に優しいクッション性のあるラバー素材で覆われている部分もある。

ところどころには、腹筋運動やウェストひねり、自転車こぎ運動などのできる運動器具も設置されていて、また広くスペースがとれるところにはバスケットボール用のコートなども作られている。



自動車やバイクのことを気にせずのんびりと歩くことができる。実際に歩いている人や運動している人の姿も多く目にし、人々に愛されている遊歩道なのだなと感じた。  

Posted by dilbelau at 11:39Comments(0)東莱・金剛公園

2008年12月12日

2008年12月11日(木)東莱温泉の足湯

さて忠烈祠を後にして、せっかく近くに来たので東莱の足湯で歩き疲れた足を癒していくことにした。ホテル農心のすぐそばにある公共の足湯。実際に来てみるのは初めてだったが、平日の昼間でも予想以上に人が多い。主に中高年以上の人たち。



ちょうど靴を脱いでズボンをまくりあげて、まさにお湯に足をつけようとしている人がいたので、私もその人の隣に…と思ったら、先に入っていたおばあさんから

「そのまま入っちゃだめよ。あっちで洗ってから。よく読んでね!」

と注意を受けてしまった…(汗)

おばあさんの言う「あっち」を見てみると、メインの浴槽(?)の横に小さめの浴槽があり、「ここでまず足を洗ってから利用してください」と書いてある。なるほど。そうしないと、お湯がすぐに汚れてしまうのだ。



しばらくこちらに足をつけて足の汚れを落としたら、いざメインの浴槽へ。足をつけてみてびっくり。湯の温度がかなり高い。42~43℃ぐらいはあると思われる。入っている人たちはみな気持ちよさそうに足をつけているが、足の皮膚の色が湯につかっているラインから下、くっきりかなり赤くなっている。



足湯の利用上の注意として、

①1日1回20~30分ぐらいを目安とすること
②飲食物や新聞紙などの持ち込み禁止
③午前9時の時点で雨天や雷のときなどは休業
④毎週第1・3水曜日 定休

と書かれてあるが、この高温で30分は初心者にはなかなか難しい。私も5分もすれば体の芯からほかほかして、うっすら汗ばんでくる感じさえあり、早くも退場。

来ている人たちはゆっくりおしゃべりしながら、それこそ30分ぐらいはつかっているのだろう。恐れ入りました。

この湯温を保つのにどうしているのだろうかと思っていたら、一定の間隔で壁に開けられた郵便受けのような形の穴から、お湯が流れ出てきていた。

賑やかにおしゃべりしている声を聞きながら、ホカホカに温まった足で足湯を後にした。  

Posted by dilbelau at 18:21Comments(0)東莱・金剛公園

2008年11月04日

2008年11月4日(火)「一緒に 美容室」

金剛公園からバス停に向かう途中にある美容室。ユニークな名前に目が引き付けられる。

その名も「一緒に 美容室」




「一緒に」のふりがなが「いっしょに」なのに、「美容室」のふりがなは「ビューティーサロン」であるところも、ユニーク。

お客様と美容師が一緒になって美しい髪を作っていく美容室、という意味らしい。

でも日本語を読めない韓国人は、この看板だと何と書いてあるのか読めないだろうにと、不思議に思っていたら、ちゃんとハングルでも 「잇쇼니 미용실 (一緒に美容室)」 と表示してあった。なるほど。^^  

Posted by dilbelau at 18:46Comments(6)東莱・金剛公園

2008年11月04日

2008年11月4日(火)金剛公園 紅葉

よく晴れた気持ちのいいお天気。2週間ほど前に訪れた金剛公園が、そろそろ紅葉の見ごろではないかと思い、再び行ってみた。



公園の門をくぐったところに 「民俗工芸体験館」 という小屋がある。



背負いこや履き物をワラで編んだり、機織りを体験したりすることができるらしい。



「民俗工芸体験館」や、その近くにある小さな小さな遊園地(乗り物が3つほどあるだけ)を通り過ぎて少し行くと、ロープウェイ乗り場。



所要時間約5分。はるかかなたには、我が家の近所にある広安大橋も見える。



2002年サッカーワールドカップが開かれた競技場。



やがて降り口に到着。かわいい幼稚園児らしき子どもたちが遊びに来ていて、ちょうどお弁当を食べていた。



ロープウェイ降り口近くの売店前にある木が、ちょうど美しく紅葉していて目を引く。



そこから、ひとまず金井山城の「南門」を目指して歩き始める。



途中、巨大な岩がたくさんゴロゴロしている。



爽やかな空気の中、しばらく上る。私はロープウェイで上がってきたが、下からずっと歩いて登ってくる人もけっこう多いようだ。





やがて金井山城の「南門」(史蹟第215号)に到着。



「南門」横にある案内文によると、金井山城は、

壬辰倭乱と丙子胡乱(1636年)以後、海上の防御のために金井山に積み上げられたもので、国内の山城のうち一番規模が大きい。日帝時代に破壊されたが、1972年から復元工事が始まり現在にいたる。

というものだそうだ。





「南門」近くの広場では、登山客のおばさんたちがお弁当を広げている。



さて、そこから「東門」を目指すか、山頂を目指すか迷ったが、眺めのよさそうな山頂を目指してみることにした。



そこからは傾斜も急になり、ゴツゴツした岩場をよじ登っていくような場所もある。しばらく上ると、少し視界が開ける。



標高605mの「望美峰」。



山肌の紅葉が美しい。真っ赤に色づいているものはあまりないが、切り立った岩肌と、いろいろな色に色づいた木々が対比をなしていて美しい。





そこから山頂へ行くには、さらに40分ほど上らなくてはならないという。今日のところは、ここで引き返すことにして、持ってきたおにぎりで昼食。きれいな空の下、いい景色を眺めながら食べるおにぎりはいつもよりおいしく感じる。はるか遠くに広安大橋。



途中他の登山客が、話しかけてきた。私が日本人だと言うと、そこからは英語になり、東京と大阪に行ったことがあるという。大阪は街がとてもきれいだったと話してくれた。

また、シートを敷いて休憩していた別の登山客たちは、こっちに来て一緒にコーヒーを飲みなさい、という。リンゴもむいてくれ、あれこれ話をする。彼らは山がとても好きで、いったん山に入ったら朝から日暮れまで一日中山を歩き回っているそうだ。

コーヒーとおいしいリンゴでしばらく休憩したあとお礼を言って、私はもと来たロープウェイ乗り場へ向かう。砂地のため、滑らないよう注意しながら下りるので、登りよりも下りの方が足に力が入り思ったよりいい運動になった。







日本の紅葉のような真っ赤なモミジなどは少なかったが、こういう紅葉もなかなか素朴で美しいと思った。



* * *

ロープウェイを降りてバス停に向かう途中、左右にたくさん東莱パジョンの店が並ぶ区画がある。



そこでおじさん2人がおしゃべりしながら、熱心に東莱パジョンの材料であるワケギの下処理をしている姿を見かけた。



とても手間がかかる作業のようだが、おそらく毎日のようにされているのだろう、慣れた手つきでさばいていた。  

Posted by dilbelau at 17:17Comments(2)東莱・金剛公園

2008年10月21日

2008年10月21日(火)ロープウェイで金剛公園

『東莱別荘』 を出て、忠烈祠へ向かうつもりだったが、せっかくなのですぐ近くにある金剛公園へロープウェイで上がってみることにした。金剛公園へ向かう道にある門。石の支柱が印象的。



門をくぐって入る側には「望美楼」、門から出ていく側には「東莱都護衛門」と書かれてある。












門をくぐって金剛公園へ向かう坂道の両側には、さすが東莱だけあってパジョンを売る店が軒を連ねる。





















各店先にはパジョンを焼く鉄板と、パジョンの材料ワケギと卵が並べてある。



















さすがにおなかがいっぱいだったので、今日はこれらの店は見るだけで素通り。もう少し坂を上っていくと、やがて金剛公園へ上がるロープウェイ乗り場へ。標高790mの金井山一体が金剛公園に指定されている。山頂近くまではロープウェイで約5分。歩いて登ることもでき、今日も登山客をたくさん見かけた。夫も昔ここへ来た時は、歩いて登ったそうだ。

途中、ところどころわずかに紅葉し始めている山々や、釜山の景色を眺めながらロープウェイは山頂駅へ。残念ながら、先日から調子の悪かったデジカメが、ついに言うことをきかなくなってしまい、その景色はカメラにおさめることができなかった…><

ロープウェイを降りると、下界よりもひんやりしていた。土や緑のいい匂いがしており、深呼吸。山頂駅付近にはベンチやテーブルがあり、また山頂展望台では簡単な食事もできるようになっている。Mさんが持ってきてくれたおやつをいただき、しばらく雄大な景色を堪能。今日は遠くの方が少しかすんでいたが、よく見ると広安大橋も見えた。サッカーワールドカップのときのサッカー競技場も。

しばらくしてまたロープウェイで下山。けっこういい時間になっていたので、私は忠烈祠へ行くのはまた今度にすることにして、一足お先に帰路に着いた。  

Posted by dilbelau at 21:14Comments(0)東莱・金剛公園

2008年10月21日

2008年10月21日(火)東莱別荘で昼食

朝、同じ学校に通っているMさんから電話で、Yさん(同じ学校)と3人で出かけませんかとお誘いいただいた。東莱にある忠烈祠というところに行く予定で、その前に 『東莱別荘』 というところで昼食をとることにした。 『東莱別荘』 は戦前、日本人の別荘であった建物を改築して現在は伝統的な韓国料理の店となっている。白い塀の中には青あおと生い茂った樹々。



門のところには一人男性が待機していて、店の中まで案内してくれる。



重厚な感じの日本家屋。



2005年のAPECのときにはローラ夫人も来店されたそうで、写真がたくさん飾ってあった。



玄関を入ったところには、亀をデザインした木製のテーブル。



テーブル席もあるが、私たちが案内されたのは和室の個室。












前菜のカボチャのお粥とお刺身。1枚の白菜の上に盛りつけてあるのは、日本人には新鮮だった。



















ポテトサラダかと思いきや、オレンジ風味のシャーベットだったので驚いた(左)。山芋の柚子ソースかけ、栗となつめの甘露煮、イカのサラダ(右)。












イカと野菜のコチュジャン和え(左)。ニンニクとマッシュルームのグラタン風(右)。












パジョン(左)とチャプチェ(右)。












プルコギ(左)と大根とサバの煮物(右)。












牛肉とキノコのすき焼き風(左)とご飯のお供各種(右)。これらと共に、黒米などの雑穀入りのご飯も。














食後のデザート。

色鮮やかな甘酸っぱい飲み物(五味子茶ではないそうだ)と、梨。

梨の皮でウサギの耳を。



韓国の宮廷料理はもともと辛い料理はなかったと聞いたことがあるが、今日のお料理の数々も、ほとんどすべてが全く辛くないものだった。このお昼のコースは一人15000ウォン。この店は、結婚式のときにもよく利用されるそうで、夜のになると最高70000ウォンのコースまで。

今日のお昼は他に客がいなかったようで、静かな琴の音が聞こえてきて別世界のような雰囲気の中、ゆったりとお食事をいただくことができた。

食後、店の広いお庭を散策。




日本のどこかの温泉宿のようなたたずまい。





店の玄関の裏に回り込むように散策路がついている。五角形の屋根の、離れ座敷のような建物。












ここが釜山であることを忘れてしまいそうな空間。
















通りから1本路地を入ったところにあるので車の音もせず、とても静かな落ち着く空間だった。



さて、とてもおなかいっぱいになり、心も落ち着いたところでいざ忠烈祠へ向かおうとしたが、その前にすぐ近くの金剛公園までロープウェイで上ってみることにした。
  

Posted by dilbelau at 18:09Comments(0)東莱・金剛公園