2012年01月12日
対馬紀行-元寇の古戦場 19
つづき
実に穏やかな風景だ。


対岸の海際に鳥居が見える。対馬には、海中や海のそばに建つ鳥居が多いようだ。

県道24号線をさらに進むと、やがて目指す小茂田地域に到着。ここにも小型漁船がたくさんもやってあった。

海沿いには、海からの強風を遮るように松の木が植えられており、そばには碑や案内板が並んでいる。

そばの案内板に、元寇の古戦場(佐須浦)について説明が記されている。
文永11(1274)年、弘安4(1281)年と二度にわたる蒙古襲来(元寇)で対馬・壱岐は、酸鼻を極める惨状を呈していたといわれている。
文永11年10月5日、蒙古元帥忽敦(こつとん)は兵3万、軍船900艘で対馬の西海岸一帯を侵略した。各地で激しい戦いがあり、宗家の一族がそれぞれの任地で討死している。
守護代宗助国(そうすけくに)は、自ら親兵80余騎を従えて、府中から佐須に討って出、この地、小茂田の海岸に近い 「ひじきだん」 に陣を備えたという。
700年前の佐須浦は現在の地形と異なり、川筋に沿ってかなり浦深い入江であった。従って、戦場は今の金田小学校付近と想定されるが、諸説ある。
10月6日寅の刻(午前4時頃)戦いは始まり、助国らは奮戦したが、辰の下刻(午前9時頃)乱軍の中に武将たちは戦没した。宗助国の墓と伝えられる 「お首塚」 が下原(しもばる)に、「お胴塚」 が樫根(かしね)にあり、一軍の首将の墓がバラバラであるのも、その最後の壮絶さを物語っている。助国はこの時、68歳の老将であった。
この小茂田浜神社は、宗助国公以下国難に殉じた人々を祀っており、毎年新暦11月12日には慰霊の大祭が行われている。昔をしのぶ 「武者行列」 のお下り、蒙古軍を迎え撃ったごとくはるかなる海の彼方に弓矢をかまえる 「鳴弦の儀」 などの行事がある。
松の木の向こう側は小茂田浜海浜公園として整備されている。ここで730年ほど前に激しい戦いがあったのだとは、この静かな海を見ていると想像できない感じだ。

砂浜が続く海岸線。風で砂が飛ばされるのを防ぐネットが設置してあった。

海のそばには、宗助国公以下国難に殉じた人々を祀っているという小茂田浜神社(▼)。


神社のそばには、日露戦争のときの帝国陸軍戦没者の忠霊塔が(▼)。

塔の前の石碑には、戦没者軍人の名前が刻まれている。

同じく神社のそばには木製のポールがあり、ポールの横には 「大日本帝国々旗掲揚柱」 と刻まれた石柱があった。

ポールの木はまだ新しく、最近建て直されたものらしい。

つづく
実に穏やかな風景だ。
対岸の海際に鳥居が見える。対馬には、海中や海のそばに建つ鳥居が多いようだ。
県道24号線をさらに進むと、やがて目指す小茂田地域に到着。ここにも小型漁船がたくさんもやってあった。
海沿いには、海からの強風を遮るように松の木が植えられており、そばには碑や案内板が並んでいる。
そばの案内板に、元寇の古戦場(佐須浦)について説明が記されている。
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文永11(1274)年、弘安4(1281)年と二度にわたる蒙古襲来(元寇)で対馬・壱岐は、酸鼻を極める惨状を呈していたといわれている。
文永11年10月5日、蒙古元帥忽敦(こつとん)は兵3万、軍船900艘で対馬の西海岸一帯を侵略した。各地で激しい戦いがあり、宗家の一族がそれぞれの任地で討死している。
守護代宗助国(そうすけくに)は、自ら親兵80余騎を従えて、府中から佐須に討って出、この地、小茂田の海岸に近い 「ひじきだん」 に陣を備えたという。
700年前の佐須浦は現在の地形と異なり、川筋に沿ってかなり浦深い入江であった。従って、戦場は今の金田小学校付近と想定されるが、諸説ある。
10月6日寅の刻(午前4時頃)戦いは始まり、助国らは奮戦したが、辰の下刻(午前9時頃)乱軍の中に武将たちは戦没した。宗助国の墓と伝えられる 「お首塚」 が下原(しもばる)に、「お胴塚」 が樫根(かしね)にあり、一軍の首将の墓がバラバラであるのも、その最後の壮絶さを物語っている。助国はこの時、68歳の老将であった。
この小茂田浜神社は、宗助国公以下国難に殉じた人々を祀っており、毎年新暦11月12日には慰霊の大祭が行われている。昔をしのぶ 「武者行列」 のお下り、蒙古軍を迎え撃ったごとくはるかなる海の彼方に弓矢をかまえる 「鳴弦の儀」 などの行事がある。
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松の木の向こう側は小茂田浜海浜公園として整備されている。ここで730年ほど前に激しい戦いがあったのだとは、この静かな海を見ていると想像できない感じだ。
砂浜が続く海岸線。風で砂が飛ばされるのを防ぐネットが設置してあった。
海のそばには、宗助国公以下国難に殉じた人々を祀っているという小茂田浜神社(▼)。
神社のそばには、日露戦争のときの帝国陸軍戦没者の忠霊塔が(▼)。
塔の前の石碑には、戦没者軍人の名前が刻まれている。
同じく神社のそばには木製のポールがあり、ポールの横には 「大日本帝国々旗掲揚柱」 と刻まれた石柱があった。
ポールの木はまだ新しく、最近建て直されたものらしい。
つづく
Posted by dilbelau at 15:31│Comments(4)
│日本
この記事へのコメント
壮絶なる戦いの歴史があったのですね。
こんなにも明細にご紹介いただき感謝します!
こんなにも明細にご紹介いただき感謝します!
Posted by hagi1
at 2012年01月12日 21:36

hagi1 さま
恐縮です。
記憶はすぐに薄れてしまうので、自分の記録のためにも書いています。
恐縮です。
記憶はすぐに薄れてしまうので、自分の記録のためにも書いています。
Posted by dilbelau
at 2012年01月12日 22:20

確かに。
永久保存版の価値あるブログとなりますね!
永久保存版の価値あるブログとなりますね!
Posted by hagi1
at 2012年01月13日 03:49

hagi1 さま
いえいえ、そんなたいそうなものでは。
でも釜山は特に、街の表情や飲食店の入れ替わりなど、変化が激しい街なので、数年前のブログを見るとその違いを実感したりします。
いえいえ、そんなたいそうなものでは。
でも釜山は特に、街の表情や飲食店の入れ替わりなど、変化が激しい街なので、数年前のブログを見るとその違いを実感したりします。
Posted by dilbelau
at 2012年01月13日 09:00
