2012年06月12日

模型飛行機に魅せられた少年 2

つづき

鄭戊錬(チョン・ムリョン)先生の自伝から、模型飛行機の部分を少しご紹介。先生の模型飛行機に対する情熱が伝わってくる。
*****

<模型飛行機を始める>

模型飛行機の趣味も子供のころからだ。日中戦争が始まり、この戦争には航空機が必要だと判断した日本政府は、全国民、特に青少年への航空機教育に力をいれ、学校では模型飛行機を作ることが奨励された。

小学校2~3年生ころ、17~8歳の青年がライトプレーン(ゴムを動力にして飛ばす模型飛行機のこと)を飛ばすのがおもしろくてずっと見ていた。手でプロペラを回して輪ゴムを巻き、プロペラから手を離すと4~5メートル飛ぶ。屋根に着陸したり窓にぶつかったりしながら2~3秒飛び、地面に落ちる。飛行機の近くに行って、材料はどこで買のか、いくらなのかとたずねた。

飛行機は当時の金で20~30銭だったが、うどん1杯が5銭したことを思えば高いものだった。わが家は料理店を経営してわりと裕福だったが、おこずかいをもらうのはたいへんだった。店に来た客からもらったおこずかいを少しずつためた。飛行機の材料は飯坂には売っておらず、20里ほど離れた福島に行かねばならなかった。福島までは電車で約30分、料金は7銭だったが、金を節約して材料費に使うため歩いて往復した。

材料が手に入ればその日から徹夜作業である。朝、学校が始まると走って行き、帰宅したらまた作業にとりかかる。飛行機が完成したら、雨風が強くない限り夜中だろうが早朝だろうが試験飛行に出かけた。期待どおりに飛べばひとり満足し、飛行機をかかえて布団に入る。思い通りに飛ばなければ修理だ。飛行に満足するまで何度でも直した。

<父との約束>

東京の中野学園中学校に進学してからも暇さえあれば模型飛行機を作っていた。中学ではバルサ材を使ったグライダーを作り始めた。そのころ、初めは荻窪の姉夫婦の家から通学していたが、その後、中野無線学校に入学した次兄と2人で住むことになった。兄はわたしの趣味に干渉しなかった。下宿部屋の天井にはいつも2~3台の模型飛行機がぶらさがっていた。

ある日、学校から帰ると部屋で父がタバコを吸っていた。天井を見ると模型飛行機がすべてなくなっていた。
「こいつ、勉強もせずに飛行機ばかり作って。天井の飛行機はぜんぶ捨てたぞ」と父が言った。返すことばもない。父からそう言われても模型飛行機への愛着は消えず、2~3日したらまた作りはじめてしまい、すぐに夢中になった。

半年後、再び父がやってきたが、こんどは飛行機は捨てられなかった。天井からつり下げられた飛行機を見て父は言った。
「そんなに模型飛行機が好きなら勉強もしっかりやれ。試験で全校1番になったら、おまえがほしいものを買ってやる」
禁止しても言うことをきかず、飛行機を壊しても作りはじめてしまう息子に、まず成績を上げろということだった。
「もし1番になったら、ガソリンエンジンと材料を買ってください」

ガソリンエンジンの模型飛行機は1940年代初めに出はじめ、フリーフライトが盛んに行われていた。 RC(ラジコン)飛行機は日本では三島通隆氏が最初に試みている。多摩川河川敷で開催された全日本模型飛行機大会でデモンストレーション飛行を見たことがある。機体内の機器はわからなかったが、送信機は横60センチ縦30センチ高さ25センチほどのボックス型で、アンテナは2メートル以上だった。その大会には李王家の李剛公も参席していたらしい。送信機の中で、真空管の青い光や赤い光が輝いていた。

<子供のような夫>

解放後、仕事がなくサムチョンポでぶらぶらしていた時も模型飛行機への情熱は変わらず、グライダーを作って郊外の広場で飛ばした。プサンの国際市場で入手した直径20センチほどの円形刃と廃車になった自転車のペダルやチェーンを利用して製材機を作った。これで角材を作り、竹ひごはドラム缶の鉄板にドリルで開けた穴を利用して作った。こうして材料まで自分で作り、模型飛行機作りに熱中した。

当時は20歳になれば大人扱いされたものだ。ところが、そんな大人が小さな飛行機を走りまわって飛ばしている姿を見て人々はおもしろがっていた。父はだいぶ前からわたしのことを諦めていた。妻は子供のように遊ぶ夫の姿を見て、将来が心配だったという。

<プサンで本格的に開始>

サムチョンポでは、グライダーを作るのに適当な輪ゴムがなく、ライトプレーンはできなかった。本格的に始めたのはプサンに転勤してからだ。テシン洞の公設運動場の前にビョンジョンチョルさんが経営する趣味科学舎があった。その店を知ってからわたしの模型飛行機作りは本格的になった。グロウエンジンのリードタイプの送信機とエスケープタイプの送信機を使い、ラジコンの模型飛行機を飛ばし始めた。そのころからプロポーションタイプの送信機も出はじめたが、非常に高価なものだった。

ある日、ラジコン飛行機を飛ばしていると、米軍のヘリコプター操縦士がやって来た。彼は、自分も飛ばしたいと思っているのだのが、作り方や操縦方法を教えてくれないかという。わたしは、教えてあげてもいいが、そのかわりに飛行機2機分の材料とプロポ型の送受信機1台を用意してもらえるかと聞くと、了解したと言う。こういう経緯で米国キッド「スカイラーク」を作り、わたしはついに完全なラジコン機材を手に入れた。初めての送信機はOS4チャンネルプロポだった。エスケープタイプよりもはるかに操縦が簡単で、安定性もよく墜落事故が少なかった。

<よく落ちた飛行機>

最初のころは飛行機はよく墜落した。日曜になると、愛好家は土曜まで徹夜で作った飛行機を手に手に集まってくる。そして、製作や修理にどれほど苦労したかお互いの意見を交換する。ところがいざ飛ばそうとなると人より先に飛ばすのを嫌がる。飛ばせば墜落するのがあたりまえだったから、自分の飛行機が墜落するのを少しでも遅らせようと考えるのだ。朝はすばらしい飛行を思い描いて家を出る。ところが帰りは壊れた機体が見えないよう新聞紙で包み、その上をさらに風呂敷で包み、気落ちしてバスに乗る。家に帰れば妻の小言の対応に忙しかった。

飛行機を飛ばすためにはあちこち出かけた。旧航空大学の敷地(テヨン洞ソクポ)やスヨンの飛行場、ナムチョン洞のビーチ、ヘウンデビーチ、タデポ海岸、チャンニプ工業団地造成地、国際ゴム横の産業道路敷地、時にはミリャンやウルサンまで空き地をもとめて飛行機を飛ばした。一番よかった場所はキメ空軍基地を造成していた工事現場だった。

<なつかしい仲間たち>

当時の仲間はチェミョンドクさん、キムサンヘさん、ビョンジョンチョルさんなどだ。製作も操縦もうまかったのビョンジョンチョルさんだった。彼が若くして亡くなったのはほんとうに残念だった。ソウルの仲間はキムデシクさん、カンテクスさんなどだ。

今年(1995年)、第17回全国模型飛行機競技大会に参加した。わたしはこの大会の第1回から第4回まで毎回参加し賞をもらった。デモンストレーション飛行もした。今や昔の仲間のほとんどは喜寿に近い年齢になったが、彼らが楽しんでいる姿をみると感無量になる。最近は韓国も豊かになって若い愛好家が増えた。プサンだけでも70-80人もの愛好家がおり、うれしいことだ。

台風警報が発令された中でも雨に降られて飛ばした日、お盆や正月にもかかわらず飛行機と格闘した日々、飛行機を引き上げるため真冬の水に入り、焚き火にあたって震えた日、人家の屋根に墜落してしまい、かなりの金額を弁償したこと、うまく操縦できず消えてしまった機体を探しに山中をさまよった日々、それでも見つからずKBSラジオに情報提供を頼み、ようやく見つけて5000ウォンの奨金を払ったこと・・・。ばかばかしさやエピソードに満ちた我が模型飛行機人生はいつまで続くのだろう。模型飛行機を飛ばしている間だけは青く広い空はわたしのものであり、何の抑圧もこだわりもなく翼を広げられる自由な時間である。
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自作のグライダーを飛ばす準備をしている先生(右▼)。バルサ材を使っているとのことで非常に軽い。このグライダーの特徴は、プロペラが折り畳み式になっているところだそうだ。固定式と違い、もし地面に落ちたときでも折れにくいのだそう。

模型飛行機に魅せられた少年 2

最近は、模型飛行機のキットが販売されており、誰でも手軽に作られるが、先生は昔から手作り一筋だそう。キットで作るのはむしろ面白みがないという。自分で試行錯誤しながら作り上げるからこそ、飛ばす楽しみや喜びもひとしおだし、飛行機の構造や飛行する原理などを知ることが勉強になるとのこと。

模型飛行機に魅せられた少年 2

このグライダーの動力はモーター。本体部分に充電池とモーターが入っている。飛行機そのものは非常に軽いが、充電地とモーターはけっこう重い。飛ばす前に飛行機の具合を調整する先生(▲)。

本体と翼はゴム紐で固定する。ちょうど、自転車の荷台に乗せた荷物をゴム紐で固定する要領で。そんなに軽く固定するだけで大丈夫なのかなと思うほどだが、むしろ頑丈に固定してしまうと飛行機が落ちたとき翼が折れてしまいやすいのだそうだ。固定を軽くしておけば、落ちて衝撃を受けた時、翼が本体からすぐ外れることで衝撃を逃すのだそう。

このグライダーを操作するラジコン操縦機(▼)。

模型飛行機に魅せられた少年 2

つづく


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この記事へのコメント
こんばんは
中学の頃 学校に飛行機倶楽部を作って
Uコン(ユ~コン)飛行機を飛ばした物です(^o^)
焼きダマエンジンで飛ばす飛行機をワイヤーラインで操縦したんですが
結構目の廻る飛行だった記憶があります(^^;)

ラジコンは 高校生になって エンジンバギーを作って遊んだくらいです(^o^)

就職した頃にはエンジンに変わり モーター駆動のラジコン自動車を走られました。

今でも機械があれば ラジコン模型を楽しみたいです(^o^)
Posted by しか225しか225 at 2012年06月12日 21:40
しか225 さま

こんばんは。
しか225さんも、随分、飛行機に夢中になられたようですね^^

鄭先生が自作の飛行機を飛ばす姿は、まるで少年のように本当に楽しそうでした。
Posted by dilbelaudilbelau at 2012年06月12日 22:09
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