2011年03月25日

民主公園 2

つづき

1960年の 「4・19革命」 後、尹潽善(윤보선/ユン・ボソン)大統領による政府が発足したのもつかの間、翌1961年5月16日には軍事クーデターが勃発、朴正煕 (박정희/パク・チョンヒ)による軍政が1963年まで続くことになる。1963年には朴正煕が第5代大統領の座につき、第9代在任中(1979年10月26日)に暗殺されるまで、実に16年もの長きにわたって大統領の地位にあった。

1979年10月4日、朴正煕政権の国会で新民党総裁の金泳三(김영삼/キム・ヨンサム)の議員職除名案が半ば強引に通過される。このことを発端に1979年10月16~20日にかけて、金泳三総裁の地元・釜山市と隣接する馬山市で、学生・市民が反独裁・民主化を要求して大規模なデモを起こす。「釜馬民主抗争(부마민주항쟁)」 だ。

これにより政局は不安定な状態に陥る。そして、釜馬民主抗争の収集を巡って政権内部で対立が深まったことが、10月26日の朴正煕暗殺の導火線となった。

朴正煕が暗殺され、一時的に政治的自由が回復した(1980年4月の 「ソウルの春」 )ことに伴い、「戒厳令撤廃」 と 「維新残党退陣」 を要求する学生の大規模な街頭デモが全国各地で展開された。学生デモは1980年3月~5月中旬にかけて全国で2,300回余り、120の大学35万人の学生が参加するという大規模なものとなった。

これら学生による民主化運動と労働者による労働運動を鎮圧し、新軍部による政権掌握のための戒厳令拡大措置が1980年5月17日に断行され(「5・17クーデター」)、再び軍政に移行することとなった。

全斗煥(전두환/チョン・ドゥファン)の新軍部は、執権の見込みのある野党指導者の金泳三・金大中(김대중/キム・デジュン)らを逮捕・軟禁。これが大きなきっかけとなり、金大中の出身地・全羅南道にある光州で 「5・18光州民主化運動」 (1980年5月18~27日)が起こる。民主化を求める活動家とそれを指示する学生・市民が韓国軍と衝突し、ここでも多数の死傷者が出た。

やがて1980年に第11代大統領に就任した全斗煥。彼が第12代大統領の任期最終年(1987年)に入ると、大統領の直接選挙制改憲を中心とした民主化を要求するデモ 「6月民主抗争」 が繰り広げられた。結果、大統領直接選挙制改憲実現などの一連の民主化措置を約束する 「6・29民主化宣言」 を全斗煥政権から引き出すことに成功した。

その後、1988年からの盧泰愚(노태우/ノ・テウ=第13代)、1993年からの金泳三(第14代)、1998年からの金大中(第15代)、2003年からの盧武鉉(노무현/ノ・ムヒョン=第16代)、2008年からの李明博(이명박/イ・ミョンバク=第17代)現大統領へと至る。

これら、数多くの学生や市民が血を流し犠牲となった民主化運動の歴史を学ぶことができるのが 「民主抗争記念館(민주항쟁기념관)」 だ(▼)。

民主公園 2

「4・19民主抗争」 「釜馬民主抗争」 「5・18光州民主化運動」 「6月民主抗争」 など、一連の民主化運動の様子を、写真・映像・遺品などの資料とともに知ることができる。中には運動家を閉じ込めた当時の独房も再現されており、見学者が実際に独房に入ってその苦痛や孤独を体験できるようにもなっている(▼)。

民主公園 2

多くの犠牲を伴って民主化を求める運動を起こしては鎮圧され軍政に戻り、再び立ち上がってはまた鎮圧、軍政・・・と、繰り返されてきた民主化運動と軍事政権。しかし、決して屈せず諦めることなく民主化運動を繰り返し、そのたびに何かが変わり歴史のページがめくられていったことは事実だろう。

民主公園 2

韓国語のことわざの一つに 「바위에 달걀 부딪치기(パウィエ タルギャル プディチギ)」 というものがある。岩(바위/パウィ)に卵(달걀/タルギャル)を打ち付ける(부딪치기/プディチギ)ごとく、いくらやっても勝算がないことを表したものだ。

一般の学生や市民が、政府や国を動かすことは容易ではない。しかしその容易ならぬことでも、自由を勝ち取るためにやらずにはいられない。大勢の犠牲者を出し、たくさんの血を流してようやく勝ち取った民主主義。展示物を見ているとそういった韓国の不屈の精神が感じられる。

つづく


同じカテゴリー(忠烈祠・その他公園)の記事
中央公園
中央公園(2011-03-26 09:09)

民主公園 1
民主公園 1(2011-03-25 07:53)


上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
民主公園 2
    コメント(0)