2008年08月18日
2008年8月18日(月)우리(ウリ)
散歩から戻ってきた夫の、今朝の「予報」は「今日は1日中曇りで太陽が顔を出さないかもしれません」。どんよりとした朝。そのうち太陽は顔を出したものの、カーッと晴れたかと思うとまた厚い雲に覆われ、また一時晴れては曇り…の繰り返し。ビーチの遠くの方には、今にも雨が降りそうな黒っぽい雲が垂れこめている。生ぬるい風も強く吹き、まるで台風が近づいているかのよう。こりゃまた降るなー…。
雨が降ってくる前に買い物をすませておこうと八百屋へ行ったが、思いがけなく休み…。大雨の日は店頭に品物を並べられないから休むそうだが、今日も大雨を見こしての休みか。この八百屋に休まれると、本当に不便。><
さて、今週金曜日で私たちが釜山に来てちょうど半年になる。半年の間に見聞きし、体験したことを通して特に印象的だと感じたのは「우리(ウリ)」の精神。他人と自分との距離感。
日本では誰かの家に招かれて行ったときに、家のプライベートな場所まで見て回ることはあまりしないし、例えばトイレを使うときにも一言ことわってから使うのが一般的だと思うが、こちらでは違う。「私の家」「他の人の家」というような区別をあまりつけない。自分の家のように自由にふるまう。
と言うと傍若無人のようだが、そうではない。「私」という個人を単位として考えるのではなく、大韓民国の国民、あるいは釜山市民、あるいは同じアパートの住人、という単位で、「みんな大きな一つの家族」という意識で考えているように感じる。その意識の表れとして、「우리(ウリ)」という言葉がよく出てくるのだと思う。例えば天気予報でも、日本語に訳すと「私たちの国では、明日広い範囲で雨が降るでしょう」などと、「私たちの国」を主語にした言い方をする。
そうやって「우리(ウリ)」という言葉をよく使えば使うほど、「みんな大きな一つの家族」という同朋意識がさらに強まっていくという、意識と言葉の相互関係があるように感じる。
国や家族、近隣の人たち、同じクラスの生徒など、あらゆるところで同朋意識が日本よりはるかに強いように感じる。こちらに来てできた韓国人の友人たち、特にHさんやSさんはその同朋意識でもって、韓国人ではない私のことも大きく包んでくれるように付き合ってくださるので、それで一緒にいて安心感があり居心地がいいのだと思う。
この「自分と他人の区別」や「他人との距離感」は、長年身に付いた感覚なのでデリケートな部分だと思うが、今のところ嫌悪感や拒否感を感じることなく過ごせているのは幸いだと思う。10年ほど前に住んでいたパラオでも、どちらかというとそういう傾向があり、その「濃密な」人間関係が多少窮屈だと感じたこともあった。釜山でもこれから先、そんなふうに感じるときが来ないとは限らないが、そんなときにもうまく自分で消化して、ここの文化を楽しんでいければいいなと思う。
雨が降ってくる前に買い物をすませておこうと八百屋へ行ったが、思いがけなく休み…。大雨の日は店頭に品物を並べられないから休むそうだが、今日も大雨を見こしての休みか。この八百屋に休まれると、本当に不便。><
さて、今週金曜日で私たちが釜山に来てちょうど半年になる。半年の間に見聞きし、体験したことを通して特に印象的だと感じたのは「우리(ウリ)」の精神。他人と自分との距離感。
日本では誰かの家に招かれて行ったときに、家のプライベートな場所まで見て回ることはあまりしないし、例えばトイレを使うときにも一言ことわってから使うのが一般的だと思うが、こちらでは違う。「私の家」「他の人の家」というような区別をあまりつけない。自分の家のように自由にふるまう。
と言うと傍若無人のようだが、そうではない。「私」という個人を単位として考えるのではなく、大韓民国の国民、あるいは釜山市民、あるいは同じアパートの住人、という単位で、「みんな大きな一つの家族」という意識で考えているように感じる。その意識の表れとして、「우리(ウリ)」という言葉がよく出てくるのだと思う。例えば天気予報でも、日本語に訳すと「私たちの国では、明日広い範囲で雨が降るでしょう」などと、「私たちの国」を主語にした言い方をする。
そうやって「우리(ウリ)」という言葉をよく使えば使うほど、「みんな大きな一つの家族」という同朋意識がさらに強まっていくという、意識と言葉の相互関係があるように感じる。
国や家族、近隣の人たち、同じクラスの生徒など、あらゆるところで同朋意識が日本よりはるかに強いように感じる。こちらに来てできた韓国人の友人たち、特にHさんやSさんはその同朋意識でもって、韓国人ではない私のことも大きく包んでくれるように付き合ってくださるので、それで一緒にいて安心感があり居心地がいいのだと思う。
この「自分と他人の区別」や「他人との距離感」は、長年身に付いた感覚なのでデリケートな部分だと思うが、今のところ嫌悪感や拒否感を感じることなく過ごせているのは幸いだと思う。10年ほど前に住んでいたパラオでも、どちらかというとそういう傾向があり、その「濃密な」人間関係が多少窮屈だと感じたこともあった。釜山でもこれから先、そんなふうに感じるときが来ないとは限らないが、そんなときにもうまく自分で消化して、ここの文化を楽しんでいければいいなと思う。
Posted by dilbelau at 17:14│Comments(0)
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