日本人移住漁村「大辺港」 7

dilbelau

2012年02月18日 21:14

つづき

대변(テビョン=大辺)へ歩いて行く途中、「토암도지기공원(土岩陶磁器公園)」 の前を通りかかった。釜山で暮らし始めた年の秋、当時通っていた韓国語学校の日本人友人たちに誘われて1度だけ来たことがあった。

アクセスが少し不便なので、それ以降一度も行ったことがなかったが、帰宅後当時のブログ(食事編)、(土偶編)、(ぜんざい編)を読み返すととても懐かしかった。

やがて大辺港に到着。思ったより早く着いた。実は大辺へは、以前から行ってみたいと思っていたのだった。昨年の1月、友人らと機張にカニを食べに来た帰りに 「죽성리성(竹城里城)」 という倭城を訪れた。その時ついでに大辺まで足をのばしてみようかと思ったが、時間がなくて行けなかったのだ。

それ以来約1年が過ぎ、行ってみたいと思っていた大辺をようやく訪れることができた。大辺については、神谷丹路氏の 『韓国歴史漫歩』(明石書店・2003年)の中で詳しく記されているので、以下ご紹介。

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 大辺(テビョン)-この入江の村こそ、日帝時代、日本漁民が住み着き、ここを根拠地にして漁業をした村である。慶尚南道に数多くあった 「日本人移住漁村」 の1つである。

 江戸時代の幕藩体制下、日本の漁民は藩政秩序の中に組み込まれ、それなりに漁業秩序を保っていた。各藩の海面使用には厳格な制限があり、漁民の漁業活動はその域を逸脱することは許されなかった。ところが明治以降、藩政が崩壊する中で、とりわけ漁業人口の稠密地帯だった瀬戸内海の漁民たちは新しい漁場を求めて、西へ東へと盛んに出漁するようになる。だが、日本の沿岸は西へ行っても東へ行っても、どこへ行っても地元漁民との摩擦が絶えず、ついに玄界灘を渡って朝鮮へ行く漁民たちがあらわれる。民族的にいえば朝鮮人はそもそも肉食の民だから、魚食については日本人ほど積極的ではなかったし、面白いことに、昔は、日本人の好む魚を朝鮮人は好まず、朝鮮人の好む魚を日本人は好まない傾向があり、魚の嗜好に対する民族的食性のちがいがあった。こうした背景から、のんびりした定置網漁やごく小規模な漁業で十分やっていた朝鮮漁民を尻目に、日本漁民は朝鮮海へ盛んに出漁をするようになる。

 瀬戸内漁民の中で、もっとも早い時期に朝鮮海へ出漁するのは広島漁民だったが、広島漁民に煽られるようにして、香川、岡山、愛媛の漁民たちもうごめきだす。

 初めてこの大辺を漁業根拠地として季節的な出漁をするようになったのは、岡山県児島郡日比村の漁民たちである。彼らはタイ、サワラ漁に、早くも1891~2(明治24~5)年頃には、この地に拠点を置いたようだ(『朝鮮水産開発史』)。日比村は、岡山県で1、2をあらそう漁業の盛んな村だった。だが、この頃はまだ魚類運搬船の出現する以前で、漁民らは、いくら苦労して玄界灘を渡り、出漁しても、釜山の居留日本人向けに売るか、あるいは現地朝鮮人に売るしか販路がなかった。タイ、サワラは、日本人向けの高級魚ではあっても、朝鮮人には足元をみられて買い叩かれた。

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このような歴史のある港まち、大辺を夫と歩いてみた。海沿いに海産物を売る店・屋台がずらりと並ぶ様子は圧巻だ。海産物を買い求めるため大勢の人々が訪れ、あたりは活気にあふれている。





ここ大辺は、멸치(ミョルチ=カタクチイワシ)の水揚げの多さで有名な港。海に囲まれた韓国にあって、全国の生産量の60%以上を占めているというから驚きだ。

毎年、ミョルチの収穫が最も多い4月頃には 「기장멸치축제(機張イワシ祭り)」 が開催される。昨年は東日本大震災発生のためイワシ祭りもワカメ祭りも自粛・中止されたが、例年期間中は1日平均10万人の人々が訪れるのだそう。

そのため、屋台にもミョルチの乾物や、ミョルチや갈치(カルチ=太刀魚)を使った젓(ジョッ=塩辛)(▼)などがたくさん並んでいる。



そして機張(キジャン)と言えば有名なのがワカメ。大震災発生当時(3月16日)には、機張郡が約1トンの機張ワカメを千葉市に送ったことも記憶に新しい。ワカメは放射能物質が体内に蓄積されるのを防ぐヨード成分を多く含んでおり、放射能被害を心配する日本国民のためにとの思いからだ。

ここ大辺港でも乾燥ワカメが店頭に並び、たくさんのワカメが干されていた(▼)。



つづく

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