2012年06月01日
『コリア』はこうして誕生した 3
つづき
■ 舞い込んできた 「映画」 の話
当時の優勝のヒロイン、ヒョン・ジョンファに 「映画」 の話が舞い込んできた。「2年前、国家代表チームの監督をしていたんですが、映画会社の人から私に会いたいと連絡があったんです。『コリア』 のキム・ジウン監督と製作者が、南北統一チームの話を映画化したいとのことで。私、2人に詰め寄ったんです。『どうして今になって来たんですか?』 って。そのとき、テルン選手村の近くのマグロ専門店で焼酎を飲んでいたんですが、監督は逃げ、製作者は倒れ・・・」。
ヒョン・ジョンファは気分が良かった。ハンドボールやスキーのジャンプのように、スポーツを全面に打ち出した映画が続々と出てきていたが、卓球の映画がないことが心のどこかで引っかかっていた。自分が主人公で、また何より、ドラマチックな91年の南北統一チームの話を描く映画で、映画人が自ら足を運んできたのだから、踊りだしたいほど嬉しかった。
ハ・ジウォンとペ・ドゥナ、2人の主演女優に3ヶ月間卓球を指導した。しっかり指導せねばという使命感もあった。いい加減にはしたくなかった。過酷な運動のため、俳優らはバタバタと倒れた。気分がのれば焼酎3瓶でも飲めるというヒョン・ジョンファは俳優らと酒の席を設け、「その程度の熱意ならやりとげられない」 と俳優らに活を入れた。「はじめは俳優らに 『監督さん』 と呼ばれていたが、そのうち 『オンニ(お姉さん)』 と呼ばれるようになりましたよ」。現在、上映中の映画 『コリア』 はこうして誕生した。
(ハン・ジウォン▲とペ・ドゥナ▼に指導するヒョン・ジョンファ)
■ ついに達成したグランドスラム
ヒョン・ジョンファは92年のバルセロナオリンピック以降、強いスランプに陥った。オリンピックでシングルス・ダブルスともに銅メダルをとったが、誰にも注目されなかった。まるで罪を犯した人のように、肩を落として空港を後にした。ヒョン・ジョンファが金メダルをとると思っていたのに、国民にとっては期待外れだったのだ。23歳という若さだったが、卓球に対する懐疑心がこみ上げてきた。ラケットを置いて、故郷・釜山で少し休んだ。胸にぽっかりと穴が開いたように空虚な気持ちだった。そんなとき、国家代表の選抜戦が開かれるというニュースが入ってきた。
再びテルンへ戻ったが、その頃、身体に異変が現れた。「肉を食べると吐くんです。救急室へも何度か運ばれました。医師からは、食べるものを変えてみなさいと言われました。92年から、94年に引退するまで2年間、『草』 だけ食べて運動してましたよ。そんな体調で出場した1993年のスウェーデン・ヨーテボリの世界選手権大会。ヒョン・ジョンファはシングルス準決勝で、ルーマニアのオティリア・バデスク相手に奇跡的な逆転勝利を果たした。決勝では前陣速攻がよみがえり、ソウルオリンピックでのシングルス金メダリスト、チョンジンに3-0で完勝。韓国人選手としては初めて、世界選手権大会でシングルスの優勝を飾り、世界選手権大会グランドスラム(シングルス・ダブルス・混合ダブルス・団体戦)を達成した唯一の選手となった。昨年11月、国際卓球連盟はヒョン・ジョンファを 「名誉の殿堂」 に加え、「卓球の女帝」 を世界に知らしめた。
■ 10年間の恋愛の末に結婚
世界のトップに立ったヒョン・ジョンファは、1994年3月に引退を宣言した。当時の彼女の人気は、近年の 「フィギュアの女王」 キム・ヨナには及ばなかったとはいえ、未練なくトップの座から退いた。勉強がしたくて、キョンソン(慶星)大学の幼児教育科に進学した。「母は運動するのを嫌がっていたんです。将来食べていくためには、子どもたちの指導でもしなさいと、体育科ではなく幼児教育科をすすめてくれたんです」。その後せっかくだからと、コリョ(高麗)大学の教育大学院で修士を、キョンヒ(慶熙)大学の体育大学院で博士課程まで終えた。
そんな彼女にロマンスが訪れた。ヒョン・ジョンファのフィアンセは、全羅北道・イクサン(益山)出身、卓球国家代表のレギュラーだったキム・ソンマンさん(42)。88年ソウルオリンピックを前に、テルン選手村で練習のパートナーとして初めて出会って以来、こっそり愛をはぐくんできた。10年間の恋愛の末、1998年4月に2人は結婚した。同い年だとされていたが、ご主人は1歳年下だ。卓球が縁で結ばれた2人には、ソヨン(11)とウォンジュン(9)の2人の子どもが生まれた。ヒョン・ジョンファは、子どもたちに無理に運動させようとはしない。「小さい時に卓球を教えましたけど、もうやめました。自分が歩んできた選手生活が大変だったので、子どもたちには楽しく暮らしてほしいと思ったからです」。
3人姉妹の真ん中のヒョン・ジョンファは、現在、早くに1人になってしまった実家の母親と暮らしている。「2001年に上の子を産んだとき、母が釜山に来て産後の面倒を見てくれたんですが、そのとき私から同居を言い出したんです。私は仕事で家を空けることが多いので、母が子どもたちを育ててくれたんですよ」。
■ 卓球の行政部門の責任者として、今も 「現役」
ヒョン・ジョンファは一線からは退いたものの、片時も卓球のことを忘れたことはない。引退後、韓国馬事会の卓球チームのコーチと監督、そして国家代表チームのコーチと監督を務めるなど、卓球台から離れない 「永遠なる現役」 だ。昨年1月、大韓卓球協会の最年少で最初の女性専門理事に就任し、今回は体育行政家としても活躍している。来年6月に開かれる釜山アジア卓球選手権大会も誘致した。大会の誘致後、1991年の南北統一チームのことを思い浮かべ、北朝鮮チームを招請することにした。「先月、統一部を通して北朝鮮に招請状を送りました。長官も手助けすると快く約束してくれました」。
ヒョン・ジョンファにとって、釜山はどんな場所か。「外国に行っていて金海(キメ)空港に到着するとホッとしましたよ。ミルミョンやヒラメの刺身、テジクッパは大好きです。年をとったら釜山に戻ってきて、子どもたちに卓球を教えながら暮らしたいと思っています」。故郷を離れて長いが、今も 「釜山の娘」 なのだ。
そんな彼女に 「もし生まれ変わっても卓球をしますか」 と唐突に聞いてみた。「しないでしょうね」。選手時代の辛かった記憶があり、もう1度ラケットを握りたいという気持ちはないようだった。「その代わりに、何事もやり始めたら最後までやり遂げる性格なので、事業をして女性CEOになりたいですね」。
<略歴>
1969年10月6日、釜山市東区佐川(チャチョン)洞で、ヒョン・ジノ-キム・マルスン夫婦の次女として生まれる。テシン小学校-ケソン中学校-ケソン女子商業高校-慶星(キョンソン)大学幼児教育科-高麗(コリョ)大学教育大学院(修士)-キョンヒ(慶熙)大学体育大学院(博士課程修了)。
1979年スジョン(水晶)小学校3年生のとき卓球を始める。
夫・キム・ソンマン(42)、娘・ソヨン(11)、息子・ウォンジュン(9)。
1985年 高校1年のとき国家代表に選ばれる
1986年 ソウル・アジアンゲーム 団体戦優勝
1987年 ニューデリー世界卓球選手権大会 ダブルス優勝
1988年 ソウルオリンピック ダブルス優勝
1989年 ドルトムント世界卓球選手権大会 混合ダブルス優勝
1990年 北京アジアンゲーム ダブルス優勝
1991年 千葉・世界卓球選手権大会 団体優勝(南北統一チーム)
1992年 バルセロナオリンピック シングルス・ダブルス銅メダル
1993年 ヨーテボリ世界卓球選手権大会 シングルス優勝
1994年3月 引退
1998年4月 結婚
1999年 韓国馬事会 卓球チームコーチ
2002年 釜山アジアンゲーム 卓球国会代表チームコーチ
2004年 アテネオリンピック 卓球国家代表チームコーチ
2005年 コリア・オープン大会 卓球国家代表チーム監督
2006年 ドーハ・アジアンゲーム 卓球国家代表チーム監督
2007年 韓国馬事会 卓球チーム監督
2008年 北京オリンピック 卓球国家代表チームコーチ
2008年 大韓卓球協会 広報理事
2009年1月~2011年3月 女子卓球 国家代表チーム監督
2011年2月~ 大韓卓球協会 専務理事
2011年11月 国際卓球連盟 「名誉の殿堂」入り
つづく
■ 舞い込んできた 「映画」 の話
当時の優勝のヒロイン、ヒョン・ジョンファに 「映画」 の話が舞い込んできた。「2年前、国家代表チームの監督をしていたんですが、映画会社の人から私に会いたいと連絡があったんです。『コリア』 のキム・ジウン監督と製作者が、南北統一チームの話を映画化したいとのことで。私、2人に詰め寄ったんです。『どうして今になって来たんですか?』 って。そのとき、テルン選手村の近くのマグロ専門店で焼酎を飲んでいたんですが、監督は逃げ、製作者は倒れ・・・」。
ヒョン・ジョンファは気分が良かった。ハンドボールやスキーのジャンプのように、スポーツを全面に打ち出した映画が続々と出てきていたが、卓球の映画がないことが心のどこかで引っかかっていた。自分が主人公で、また何より、ドラマチックな91年の南北統一チームの話を描く映画で、映画人が自ら足を運んできたのだから、踊りだしたいほど嬉しかった。
ハ・ジウォンとペ・ドゥナ、2人の主演女優に3ヶ月間卓球を指導した。しっかり指導せねばという使命感もあった。いい加減にはしたくなかった。過酷な運動のため、俳優らはバタバタと倒れた。気分がのれば焼酎3瓶でも飲めるというヒョン・ジョンファは俳優らと酒の席を設け、「その程度の熱意ならやりとげられない」 と俳優らに活を入れた。「はじめは俳優らに 『監督さん』 と呼ばれていたが、そのうち 『オンニ(お姉さん)』 と呼ばれるようになりましたよ」。現在、上映中の映画 『コリア』 はこうして誕生した。
(ハン・ジウォン▲とペ・ドゥナ▼に指導するヒョン・ジョンファ)
■ ついに達成したグランドスラム
ヒョン・ジョンファは92年のバルセロナオリンピック以降、強いスランプに陥った。オリンピックでシングルス・ダブルスともに銅メダルをとったが、誰にも注目されなかった。まるで罪を犯した人のように、肩を落として空港を後にした。ヒョン・ジョンファが金メダルをとると思っていたのに、国民にとっては期待外れだったのだ。23歳という若さだったが、卓球に対する懐疑心がこみ上げてきた。ラケットを置いて、故郷・釜山で少し休んだ。胸にぽっかりと穴が開いたように空虚な気持ちだった。そんなとき、国家代表の選抜戦が開かれるというニュースが入ってきた。
再びテルンへ戻ったが、その頃、身体に異変が現れた。「肉を食べると吐くんです。救急室へも何度か運ばれました。医師からは、食べるものを変えてみなさいと言われました。92年から、94年に引退するまで2年間、『草』 だけ食べて運動してましたよ。そんな体調で出場した1993年のスウェーデン・ヨーテボリの世界選手権大会。ヒョン・ジョンファはシングルス準決勝で、ルーマニアのオティリア・バデスク相手に奇跡的な逆転勝利を果たした。決勝では前陣速攻がよみがえり、ソウルオリンピックでのシングルス金メダリスト、チョンジンに3-0で完勝。韓国人選手としては初めて、世界選手権大会でシングルスの優勝を飾り、世界選手権大会グランドスラム(シングルス・ダブルス・混合ダブルス・団体戦)を達成した唯一の選手となった。昨年11月、国際卓球連盟はヒョン・ジョンファを 「名誉の殿堂」 に加え、「卓球の女帝」 を世界に知らしめた。
■ 10年間の恋愛の末に結婚
世界のトップに立ったヒョン・ジョンファは、1994年3月に引退を宣言した。当時の彼女の人気は、近年の 「フィギュアの女王」 キム・ヨナには及ばなかったとはいえ、未練なくトップの座から退いた。勉強がしたくて、キョンソン(慶星)大学の幼児教育科に進学した。「母は運動するのを嫌がっていたんです。将来食べていくためには、子どもたちの指導でもしなさいと、体育科ではなく幼児教育科をすすめてくれたんです」。その後せっかくだからと、コリョ(高麗)大学の教育大学院で修士を、キョンヒ(慶熙)大学の体育大学院で博士課程まで終えた。
そんな彼女にロマンスが訪れた。ヒョン・ジョンファのフィアンセは、全羅北道・イクサン(益山)出身、卓球国家代表のレギュラーだったキム・ソンマンさん(42)。88年ソウルオリンピックを前に、テルン選手村で練習のパートナーとして初めて出会って以来、こっそり愛をはぐくんできた。10年間の恋愛の末、1998年4月に2人は結婚した。同い年だとされていたが、ご主人は1歳年下だ。卓球が縁で結ばれた2人には、ソヨン(11)とウォンジュン(9)の2人の子どもが生まれた。ヒョン・ジョンファは、子どもたちに無理に運動させようとはしない。「小さい時に卓球を教えましたけど、もうやめました。自分が歩んできた選手生活が大変だったので、子どもたちには楽しく暮らしてほしいと思ったからです」。
3人姉妹の真ん中のヒョン・ジョンファは、現在、早くに1人になってしまった実家の母親と暮らしている。「2001年に上の子を産んだとき、母が釜山に来て産後の面倒を見てくれたんですが、そのとき私から同居を言い出したんです。私は仕事で家を空けることが多いので、母が子どもたちを育ててくれたんですよ」。
■ 卓球の行政部門の責任者として、今も 「現役」
ヒョン・ジョンファは一線からは退いたものの、片時も卓球のことを忘れたことはない。引退後、韓国馬事会の卓球チームのコーチと監督、そして国家代表チームのコーチと監督を務めるなど、卓球台から離れない 「永遠なる現役」 だ。昨年1月、大韓卓球協会の最年少で最初の女性専門理事に就任し、今回は体育行政家としても活躍している。来年6月に開かれる釜山アジア卓球選手権大会も誘致した。大会の誘致後、1991年の南北統一チームのことを思い浮かべ、北朝鮮チームを招請することにした。「先月、統一部を通して北朝鮮に招請状を送りました。長官も手助けすると快く約束してくれました」。
ヒョン・ジョンファにとって、釜山はどんな場所か。「外国に行っていて金海(キメ)空港に到着するとホッとしましたよ。ミルミョンやヒラメの刺身、テジクッパは大好きです。年をとったら釜山に戻ってきて、子どもたちに卓球を教えながら暮らしたいと思っています」。故郷を離れて長いが、今も 「釜山の娘」 なのだ。
そんな彼女に 「もし生まれ変わっても卓球をしますか」 と唐突に聞いてみた。「しないでしょうね」。選手時代の辛かった記憶があり、もう1度ラケットを握りたいという気持ちはないようだった。「その代わりに、何事もやり始めたら最後までやり遂げる性格なので、事業をして女性CEOになりたいですね」。
<略歴>
1969年10月6日、釜山市東区佐川(チャチョン)洞で、ヒョン・ジノ-キム・マルスン夫婦の次女として生まれる。テシン小学校-ケソン中学校-ケソン女子商業高校-慶星(キョンソン)大学幼児教育科-高麗(コリョ)大学教育大学院(修士)-キョンヒ(慶熙)大学体育大学院(博士課程修了)。
1979年スジョン(水晶)小学校3年生のとき卓球を始める。
夫・キム・ソンマン(42)、娘・ソヨン(11)、息子・ウォンジュン(9)。
1985年 高校1年のとき国家代表に選ばれる
1986年 ソウル・アジアンゲーム 団体戦優勝
1987年 ニューデリー世界卓球選手権大会 ダブルス優勝
1988年 ソウルオリンピック ダブルス優勝
1989年 ドルトムント世界卓球選手権大会 混合ダブルス優勝
1990年 北京アジアンゲーム ダブルス優勝
1991年 千葉・世界卓球選手権大会 団体優勝(南北統一チーム)
1992年 バルセロナオリンピック シングルス・ダブルス銅メダル
1993年 ヨーテボリ世界卓球選手権大会 シングルス優勝
1994年3月 引退
1998年4月 結婚
1999年 韓国馬事会 卓球チームコーチ
2002年 釜山アジアンゲーム 卓球国会代表チームコーチ
2004年 アテネオリンピック 卓球国家代表チームコーチ
2005年 コリア・オープン大会 卓球国家代表チーム監督
2006年 ドーハ・アジアンゲーム 卓球国家代表チーム監督
2007年 韓国馬事会 卓球チーム監督
2008年 北京オリンピック 卓球国家代表チームコーチ
2008年 大韓卓球協会 広報理事
2009年1月~2011年3月 女子卓球 国家代表チーム監督
2011年2月~ 大韓卓球協会 専務理事
2011年11月 国際卓球連盟 「名誉の殿堂」入り
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つづく
Posted by dilbelau at 20:28│Comments(0)
│文化・芸術・エンタメ