2012年04月05日

朝鮮戦争当時の南浦洞・光復洞 5

つづき

1951年6月南浦洞の通り(▼)。写真やや右寄りに見える、同じ服装で歩いている数人の人は、検問で兵役忌避者を捜査する人。当時、米が品薄で人々は食糧難に苦しんでいた。写真左方に 「來屋製빵(パン)」 と一部看板が見えているパン屋の前に 「(米の代わりに)パンで食糧を代用しましょう」 と書いた垂れ幕が取り付けられている。

朝鮮戦争当時の南浦洞・光復洞 5

1951年6月、国際市場付近(▼)。食糧難に悩まされていた時代だが、通りのところどころでは冷麺やアイスクリームなども売られていた。それらの看板も見える。店の前に机を置いて座っている人々は、ハンコ作りの露天商。当時は避難民の身分証明のためにハンコが必要だった。

朝鮮戦争当時の南浦洞・光復洞 5

1951年6月、光復路のアクセサリー通り(▼)。現在の대각사(大覚寺=テガクサ)裏にあるアクセサリー通りの当時の様子。「大東食堂」 の前に、わずか数個のリンゴを売るために座っている少女の姿から、当時の生活ぶりがうかがえる。

朝鮮戦争当時の南浦洞・光復洞 5

1951年6月、光復路入口(▼)。光復路入口の 「韓国投資信託」 横の、旧・東光市場の裏にあった商店街の様子。植民地時代、본정(本町=ポンジョン)市場だったものが、解放後に東光市場と名前が変えられた。1968年5月に東光市場は撤去され、1969年11月に 「釜山デパート」 が建設された。写真の赤いのれんには、アイスクリーム・アイスケーキと書かれている。

朝鮮戦争当時の南浦洞・光復洞 5

1951年6月、龍頭山から見た南浦洞と光復洞(▼)。中央の大通りが구덕로(九徳路=クドンノ)で、向こうに見える山は천마산(天馬山=チョンマサン)。中央右手に見える高い建物は 「東亜百貨店」 の前身である 「東亜劇場」 で、その左に 「釜山劇場」 の屋根も見えている。

朝鮮戦争当時の南浦洞・光復洞 5

つづく


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