2010年10月07日
エミレの鐘
つづく
古墳公園を後にした私たちが、この日慶州で最後に訪れたのは国立慶州博物館(以前は有料だったが、現在は入場無料)。ここも小・中学生らしき子供たちがたくさん訪れていて、実に賑やか。暑くもなく寒くもなく、課外授業や遠足をするのにちょうどいい時期なのだろう。
さて、入り口の門を通って考古館(本館)へ向かう途中、右手の方から鐘の音が聞こえてきた。ここ(▼)から聞こえているのだ。
ガイドさんによると、これは 「에밀레 종(エミレの鐘)」 という鐘(正式名称は聖徳大王神鐘)で、国宝に指定されているそうだ。
鐘が低い位置に吊り下げられており、鐘の下の地面の部分は丸く浅い穴が掘られている。鐘の上部にある音管と、この下部の穴のために、韓国の鐘は撞いた音が長く長く響くようになっている。もちろんこのエミレの鐘にも、そういう特徴を見ることができる。
この鐘は新羅第35代、景徳王が亡くなった父・聖徳王の冥福を祈るために作り始めたもの。景徳王はこの鐘を作るのに全国から腕利きの鐘職人を集めたが、なぜか鐘の鋳造に何度も失敗しうまく作ることができずにいた。ある夜、悩み続けていた鐘職人の枕元に仙人が現れて、「幼い女の子を犠牲にすれば、鐘は立派に完成するだろう」 と言ったそうだ。
それから数日後、ある偉いお坊さんが鐘を作るための寄付を集めているときのこと。ある貧しい家の前に立つと、家の中から若い母親が出て来て 「私は貧しいので、何も差し上げる物がございません。代わりに私の娘でよろしければ差し上げます。」 と言って、自分の幼い娘を差し出した。
そのお坊さんはその幼い少女を連れて行き、鐘職人の親方に差し出した。親方は心を鬼にして、その幼い少女を青銅を溶かしている窯の中に投げ入れた。
すると、仙人のお告げ通りについに立派な鐘が完成。ところが、その鐘を実際に鳴らしてみると、「エミレ(お母さん)!! 」 と、悲しい音色で鳴ったそうだ。そしていつの間にか、その鐘は 「エミレの鐘(お母さんの鐘)」 と呼ばれるようになったそうだ。
(実際には、景徳王の在位中には鐘は完成に至らず、完成はさらにその息子である恵恭王に引き継がれたそうだ。)
このエミレの鐘は、実際に撞くとヒビが入ってしまう恐れがあるとのことで(実際に撞いたことで割れてしまった鐘があるそうだ)、今は撞くことはできない。代わりに30分に1回、鐘の音を録音したものを流しているそうで、私たちがそのとき聞いた鐘の音も録音のものだというわけだ。
こんな悲しい伝説があるエミレの鐘は、韓国の小学校の教科書にものっているそうで、鐘の前では記念写真を撮っている小学生たちが並んでいた。
さて、エミレの鐘の伝説を聞いた後、私たちは考古館へ。
考古館の中も、小中学生たちでいっぱい。あまりに賑やか過ぎて、残念ながら落ち着いて見られるような雰囲気ではなかったが、ここ慶州博物館では慶州地域の発掘調査によって出土した多くの文化財が、保存展示されている。2万余坪の敷地に約10万点の文化財を所蔵し、そのうちの約2500点を広く一般に公開しているそうだ。
考古館以外にも建物はいくつかあり、歴史好きな人がゆっくり見ようと思えば 「3~4日はかかるんじゃないでしょうか」 とガイドさん。敷地内は広々としており、背後に広がる山や青い空にところどころ建っている石塔が、古都らしさをかもし出していた。
さて、国立慶州博物館を出た私たちは、この日の慶州観光を全て終え、再び京釜高速道路経由で一路釜山へ。スーパー通訳ガイドさんのおかげで、いろいろ勉強になりとても有意義な時間を過ごすことができた。
つづく
古墳公園を後にした私たちが、この日慶州で最後に訪れたのは国立慶州博物館(以前は有料だったが、現在は入場無料)。ここも小・中学生らしき子供たちがたくさん訪れていて、実に賑やか。暑くもなく寒くもなく、課外授業や遠足をするのにちょうどいい時期なのだろう。
さて、入り口の門を通って考古館(本館)へ向かう途中、右手の方から鐘の音が聞こえてきた。ここ(▼)から聞こえているのだ。
ガイドさんによると、これは 「에밀레 종(エミレの鐘)」 という鐘(正式名称は聖徳大王神鐘)で、国宝に指定されているそうだ。
鐘が低い位置に吊り下げられており、鐘の下の地面の部分は丸く浅い穴が掘られている。鐘の上部にある音管と、この下部の穴のために、韓国の鐘は撞いた音が長く長く響くようになっている。もちろんこのエミレの鐘にも、そういう特徴を見ることができる。
この鐘は新羅第35代、景徳王が亡くなった父・聖徳王の冥福を祈るために作り始めたもの。景徳王はこの鐘を作るのに全国から腕利きの鐘職人を集めたが、なぜか鐘の鋳造に何度も失敗しうまく作ることができずにいた。ある夜、悩み続けていた鐘職人の枕元に仙人が現れて、「幼い女の子を犠牲にすれば、鐘は立派に完成するだろう」 と言ったそうだ。
それから数日後、ある偉いお坊さんが鐘を作るための寄付を集めているときのこと。ある貧しい家の前に立つと、家の中から若い母親が出て来て 「私は貧しいので、何も差し上げる物がございません。代わりに私の娘でよろしければ差し上げます。」 と言って、自分の幼い娘を差し出した。
そのお坊さんはその幼い少女を連れて行き、鐘職人の親方に差し出した。親方は心を鬼にして、その幼い少女を青銅を溶かしている窯の中に投げ入れた。
すると、仙人のお告げ通りについに立派な鐘が完成。ところが、その鐘を実際に鳴らしてみると、「エミレ(お母さん)!! 」 と、悲しい音色で鳴ったそうだ。そしていつの間にか、その鐘は 「エミレの鐘(お母さんの鐘)」 と呼ばれるようになったそうだ。
(実際には、景徳王の在位中には鐘は完成に至らず、完成はさらにその息子である恵恭王に引き継がれたそうだ。)
このエミレの鐘は、実際に撞くとヒビが入ってしまう恐れがあるとのことで(実際に撞いたことで割れてしまった鐘があるそうだ)、今は撞くことはできない。代わりに30分に1回、鐘の音を録音したものを流しているそうで、私たちがそのとき聞いた鐘の音も録音のものだというわけだ。
こんな悲しい伝説があるエミレの鐘は、韓国の小学校の教科書にものっているそうで、鐘の前では記念写真を撮っている小学生たちが並んでいた。
さて、エミレの鐘の伝説を聞いた後、私たちは考古館へ。
考古館の中も、小中学生たちでいっぱい。あまりに賑やか過ぎて、残念ながら落ち着いて見られるような雰囲気ではなかったが、ここ慶州博物館では慶州地域の発掘調査によって出土した多くの文化財が、保存展示されている。2万余坪の敷地に約10万点の文化財を所蔵し、そのうちの約2500点を広く一般に公開しているそうだ。
考古館以外にも建物はいくつかあり、歴史好きな人がゆっくり見ようと思えば 「3~4日はかかるんじゃないでしょうか」 とガイドさん。敷地内は広々としており、背後に広がる山や青い空にところどころ建っている石塔が、古都らしさをかもし出していた。
さて、国立慶州博物館を出た私たちは、この日の慶州観光を全て終え、再び京釜高速道路経由で一路釜山へ。スーパー通訳ガイドさんのおかげで、いろいろ勉強になりとても有意義な時間を過ごすことができた。
つづく
Posted by dilbelau at 09:27│Comments(0)
│慶州