2010年10月04日
スーパー通訳ガイドさん
日本の病院からの訪問団の皆さんは、1日目・2日目で病院の研修を終え、3日目は慶州への日帰り観光旅行。私も同行させていただいた。バスを一台借り切って、日本にも事務所がある韓国の観光会社に所属する韓国人の通訳ガイドさんもご一緒だ。
訪問団の皆さんが泊まっていらっしゃるホテルの前で待ち合わせて、バスに乗り込みいざ出発。前日までの研修とは違い、この日は皆さんの服装も雰囲気もとてもリラックスして和やか。
通訳ガイドさんのお話を聞きながら、京釜高速道路経由で一路慶州を目指す。途中、サービスエリアで買い込んだお菓子や飲み物とともに、わいわいと。この通訳ガイドさん、この道20年の大ベテランさんだそうだが、この方が本当にすごい方だった。
プロの通訳ガイドさんなので当然といえば当然なのかもしれないが、まず日本語のレベルが非常に高い。日本語が上手な韓国人はたくさんいるが、私が今まで会った韓国人の中で最も日本語が素晴らしいと感じた人の一人だ。非常に美しい日本語を見事に操られる。
また、案内するにあたって必要な知識の量も、ハンパではない。韓国内なら、ソウルからチェジュまで全国行かれるそうで、韓国について質問して、知らないことはないのではなかろうかと思うほどいろいろなことをよくご存知で、また日本へ留学されていたこともあるそうで、日本の文化などについてもお詳しい。
そんな ”スーパー通訳ガイドさん” の説明のおかげで、韓国について初めて知る内容がこの1日だけで山のようにあった。
例えば、釜山から慶州まで利用した京釜高速道路について。
1960年代に造られた、ソウルと釜山を約5時間で結ぶ全長約430キロの高速道路。この京釜高速道路ができる前は、韓国にある高速道路といえば、ソウルと仁川を結ぶ全長わずか40キロのもののみだった。
当時の韓国の技術力をもってしては、全長430キロもの高速道路を造るのは、技術的に不可能ではないかと言う世論が強かった中、当時の박정희(朴正熙=パク・チョンヒ)大統領が、韓国の将来のことを考えれば高速道路はどうしても必要なものだと判断し、建設に踏み切ったそうだ。
将来の国の発展のための高速道路だということで、大統領が大手建設会社4社に原価で工事してくれるよう頼んだのだそうだ。
また全長430キロの京釜高速道路には、2キロ(長いところでは5キロ)ほど、カーブやアップダウンがなく道路がずっと一直線に延びている区間が、全部で4ヶ所あるそうだ。
この高速道路を造った頃は今よりも南北間の緊張が高かったため、いざというときには、軍用機が離発着する滑走路代わりとしても使えるようにと造った区間なのだそうだ。滑走路として使うことも想定していたので、中央分離帯はわざと造っていなかったのだそうだ。
その後年月が経ち、南北間の緊張も当時よりは和らぎ、もはや滑走路として使うことはなかろうということで、自動車の大事故防止のためにも中央分離帯を後から造ったのだそうだ。(実際に滑走路として使ったことは1度もない)
「ここがその区間ですよ」 とガイドさんが教えてくださった場所は、確かにずっとまっすぐで平坦で、これなら滑走路として使うこともできただろうと感じた。
また、釜山は現在、貨物の取扱量が世界第5位だが、以前は3位だったという話も。
2003年9月に釜山を襲った大型台風 「매미(メミ=蝉)」 により、釜山港のコンテナクレーン機が全部壊れてしまったのだそうだ。そのためしばらくの間港が機能せず、その間に貨物の取扱いの多くが上海などに移ってしまい、それ以降世界第5位となってしまったそうだ。
釜山が2003年に台風 「メミ」 に襲われて大きな被害を受けたことも、釜山港の貨物取扱量が現在世界第5位だということも、どちらも聞き知ってはいたが、それら2つの間にそういう因果関係があったとは知らなかった。
また、고추(コチュ=唐辛子)についても。
韓国料理は唐辛子やニンニクを多用することで有名だが、日本で27年間かけて消費する唐辛子の量を、韓国では何と1日で消費するのだそうだ。27年分を1日で・・・。そんなに多いとは思わなかった。
そんな話を教えてもらいながら、バスは無事慶州に到着。非常に勉強になる道中だった。
まずは慶州の有名な観光地の一つ、석굴암(石窟庵)へ。写真(▼)は石窟庵へ続く道の入り口部分にある鐘。以前は確か鐘の近くまでは立ち入ることができなかったように思うが、この日は入れるようになっていた。
よく見ると、「大人1撞き1,000w」 と書いてある。その1,000wは恵まれない人たちのために寄付するようだ。

つづく
訪問団の皆さんが泊まっていらっしゃるホテルの前で待ち合わせて、バスに乗り込みいざ出発。前日までの研修とは違い、この日は皆さんの服装も雰囲気もとてもリラックスして和やか。
通訳ガイドさんのお話を聞きながら、京釜高速道路経由で一路慶州を目指す。途中、サービスエリアで買い込んだお菓子や飲み物とともに、わいわいと。この通訳ガイドさん、この道20年の大ベテランさんだそうだが、この方が本当にすごい方だった。
プロの通訳ガイドさんなので当然といえば当然なのかもしれないが、まず日本語のレベルが非常に高い。日本語が上手な韓国人はたくさんいるが、私が今まで会った韓国人の中で最も日本語が素晴らしいと感じた人の一人だ。非常に美しい日本語を見事に操られる。
また、案内するにあたって必要な知識の量も、ハンパではない。韓国内なら、ソウルからチェジュまで全国行かれるそうで、韓国について質問して、知らないことはないのではなかろうかと思うほどいろいろなことをよくご存知で、また日本へ留学されていたこともあるそうで、日本の文化などについてもお詳しい。
そんな ”スーパー通訳ガイドさん” の説明のおかげで、韓国について初めて知る内容がこの1日だけで山のようにあった。
例えば、釜山から慶州まで利用した京釜高速道路について。
1960年代に造られた、ソウルと釜山を約5時間で結ぶ全長約430キロの高速道路。この京釜高速道路ができる前は、韓国にある高速道路といえば、ソウルと仁川を結ぶ全長わずか40キロのもののみだった。
当時の韓国の技術力をもってしては、全長430キロもの高速道路を造るのは、技術的に不可能ではないかと言う世論が強かった中、当時の박정희(朴正熙=パク・チョンヒ)大統領が、韓国の将来のことを考えれば高速道路はどうしても必要なものだと判断し、建設に踏み切ったそうだ。
将来の国の発展のための高速道路だということで、大統領が大手建設会社4社に原価で工事してくれるよう頼んだのだそうだ。
また全長430キロの京釜高速道路には、2キロ(長いところでは5キロ)ほど、カーブやアップダウンがなく道路がずっと一直線に延びている区間が、全部で4ヶ所あるそうだ。
この高速道路を造った頃は今よりも南北間の緊張が高かったため、いざというときには、軍用機が離発着する滑走路代わりとしても使えるようにと造った区間なのだそうだ。滑走路として使うことも想定していたので、中央分離帯はわざと造っていなかったのだそうだ。
その後年月が経ち、南北間の緊張も当時よりは和らぎ、もはや滑走路として使うことはなかろうということで、自動車の大事故防止のためにも中央分離帯を後から造ったのだそうだ。(実際に滑走路として使ったことは1度もない)
「ここがその区間ですよ」 とガイドさんが教えてくださった場所は、確かにずっとまっすぐで平坦で、これなら滑走路として使うこともできただろうと感じた。
また、釜山は現在、貨物の取扱量が世界第5位だが、以前は3位だったという話も。
2003年9月に釜山を襲った大型台風 「매미(メミ=蝉)」 により、釜山港のコンテナクレーン機が全部壊れてしまったのだそうだ。そのためしばらくの間港が機能せず、その間に貨物の取扱いの多くが上海などに移ってしまい、それ以降世界第5位となってしまったそうだ。
釜山が2003年に台風 「メミ」 に襲われて大きな被害を受けたことも、釜山港の貨物取扱量が現在世界第5位だということも、どちらも聞き知ってはいたが、それら2つの間にそういう因果関係があったとは知らなかった。
また、고추(コチュ=唐辛子)についても。
韓国料理は唐辛子やニンニクを多用することで有名だが、日本で27年間かけて消費する唐辛子の量を、韓国では何と1日で消費するのだそうだ。27年分を1日で・・・。そんなに多いとは思わなかった。
そんな話を教えてもらいながら、バスは無事慶州に到着。非常に勉強になる道中だった。
まずは慶州の有名な観光地の一つ、석굴암(石窟庵)へ。写真(▼)は石窟庵へ続く道の入り口部分にある鐘。以前は確か鐘の近くまでは立ち入ることができなかったように思うが、この日は入れるようになっていた。
よく見ると、「大人1撞き1,000w」 と書いてある。その1,000wは恵まれない人たちのために寄付するようだ。
つづく
Posted by dilbelau at 17:03│Comments(0)
│慶州