2013年05月28日

アミドン・碑石マウルを訪ねて 1

チベット仏教寺院광성사(クァンソンサ)を後にした私たちは、寺の向かい側にある아미초등학교(アミ小学校)脇の坂道に入って行った。

아미동(アミドン=峨嵋洞)には昔、日本植民地時代の日本人共同墓地があったエリアがある。植民地からの解放後、朝鮮戦争の動乱で避難民が命からがら釜山に押し寄せ、住む場所を求めて山の急斜面にも掘っ立て小屋を建てて暮らすようになった。

戦時下の当時、住宅用の資材も当然不足しており、日本人の墓石も建物や階段の礎として使われたという経緯がある。そうした墓石が今も残っているのが비석마을(ピソク(碑石)マウル)というエリア。アミドンの산상교회(サンサンキョフェ=山上教会)という教会を中心に半径100~150mにかけてのエリアがそうだという。

そういう話は以前から聞いていて、機会があればいつか行ってみたいと思っていたのだが、クァンソンサとピソクマウルは目と鼻の先のようなので、ついでに訪ねてみることにしたのだ。

まず、アミドンの近代史を少し(参考=釜山市公式ブログ)。

釜山港の開港(1876年)と共に、現在の中区や西区には多くの日本人が定着した。その頃、釜山各地に点在していた日本人墓地を、アミサン(峨嵋山)に移し共同墓地を造成した。現在の西区アミドン(峨嵋洞)のカムチョン(甘川)コゲからサンサン(山上)教会にかけてのあたりだ。

当時、ヨンド(影島)やプサンジン(釜山鎮)、アミサンなどに私営の火葬場があった。しかしそれらが不完全なものだったため、釜山府(当時の行政区画)は1929年、谷町(現在のアミドン)に府営の火葬場を新設し、私営の火葬場を統合・移転した。火葬場新設に対しては、付近住民(日本人含む)から大きな反対運動が起こった。

新設された火葬場には約1時間で完全に処理できる火葬炉が2機あり、1933年の火葬利用回数は1,480回にも上った。連日、火葬によるにおいが付近に漂い、また遺族の泣き叫ぶ声も聞こえるなどし、この頃からアミドンと言うと火葬場が連想され、その後の地域の発展にも支障をきたした。

アミドンの日本人共同墓地には、家族または個人の墓がたくさん建てられた。お墓に供えられた食べ物を狙って、까치(カチ=カササギ)が集まってきたことから、付近は까치고개(カチコゲ=カササギの坂)と呼ばれるようになり、その名前は現在も残っている。

1945年8月15日、日本の敗戦と共に、付近に住んでいた日本人は急ぎ帰国。数百基にのぼる日本人の墓はそのまま取り残された。5年後の1950年には朝鮮戦争が勃発し、全国各地から避難民が押し寄せ、アミドンの共同墓地は避難民の生活の拠点となった。

避難民は中区ポスドン(宝水洞)やヨンド(影島)区チョンハクドン(青鶴洞)などにも定着したが、アミドンの共同墓地一帯は比較的簡単に家を造ることができた。墓の周りの囲み石などをそのまま家の壁として活用し、地ならしして屋根を張れば家ができた。

住民は「当時は家を建てるのに適当な材料がなく、周辺に散らばっていた碑石や、墓前に供え物を並べる台石など数百個を1つずつ集めてきて、建築材料として使った。生きていくためにはたとえ墓の上でも住まざるを得ない、そういう時代だった」 と言う。またチャガルチ市場などから魚を入れる木箱を集めてき、その板も建材として使った。

アミドンの감천고갯길(カムチョンコゲッキル)周辺の約600世帯が生活しているエリアには、現在もあちこちに碑石や供え物の台石など、昔の日本人墓の痕跡が残っている。碑石は壁の一部に組み込まれたり、階段の踏み石として使われたり、石垣の一部になったりしている。

その後、アミドンの火葬場は、当時釜山の僻地だった現在のプサンジン区タンガムドン(党甘洞)に移され、アミドンは道路の拡張とともに発展しはじめた。

またアミドンのカチコゲ付近にある대성사(テソンサ)という寺にある塔は、当時の日本人墓地周辺に散らばっていた碑石や石材を集めて造ったもの。「南無妙法連華経」と刻まれている碑石を見て仏教と関係がありそうだと考え、今は亡き住職が運んできて塔にしたものだ。

テソンサのある女性信徒によると 「亡き住職は塔を建てた後に、(南無妙法連華経と刻まれた碑石が)日本人が建てた碑石だと知り、碑石に刻まれていた文字をセメントで埋めたの。その後、ある日突然、住職夫人の口から言葉が出なくなった。そのため、もしやと思い、埋めたセメントを取り除いて元に戻したところ、また普通に話せるようになった」 というエピソードがある。

*****

さて、アミ小学校脇の아미로(アミロ=峨嵋路)という道を上がって行く。道の両側は住宅や美容室、小さな옷수선(オッスソン=衣服修繕)の店などが並び、生活感あふれる雰囲気だ。

アミドン・碑石マウルを訪ねて 1

道路脇には左右にこのような細い急な階段があり、その先にも住宅がある(▼)。

アミドン・碑石マウルを訪ねて 1

人通りはあまりないが、ふと見ると住民らしき人が道路脇や住宅の屋上からこちらを見ていることに気づく、ということが何度かあった。辺りは完全に生活の場なので、私たちのような “よそもの” が歩いていると、異質な感じがしてよほど目立つのだろう。

つづく


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