旅立ち

dilbelau

2013年07月30日 17:12

以前、直属の上司として大変お世話になった方が、7月24日20時ごろ亡くなった。享年48歳。早すぎる死だった。

半年ほど前に病気が見つかり、入院加療されているとは聞いていた。発見当時、すでに手の施しようがない状態だったとも。

毎年健康診断も受け、健康のため日々のウォーキングも欠かさず続けていらっしゃった。とてもお元気そうだったので、入院の知らせを聞いた時は信じられない思いだった。

その後病状はどうだろうかと気になりつつも、ご本人の意向でお見舞いにもうかがうこともかなわず、職場の方から時々様子を伝え聞くことしかできなかった。そんな中での訃報。病気の知らせを聞いたときから、いつかはこんな日が来るだろうと覚悟はしていたが、あまりに早かった。奥さまと、まだ小学生のお嬢さん2人を残して逝かねばならなかったのはどれほど無念だったろうか。

訃報の送信元は、亡くなった上司ご本人の携帯番号だった。携帯のアドレス帳に登録されていた人すべてに送っているようだった。これが上司からの最後の連絡かと思うと、より切なさが募った。

新聞社という未知の世界に飛び込んだ私にとって初めての上司で、いつも穏やかに優しく接してくださった。温厚で、怒鳴ったり声を荒げたりしている様子は1度も見たことがなかった。

野球観戦に連れて行ってくれたり、おいしい料理を食べに連れて行ってくれたり、ご自宅に招いて奥様の手料理をふるまってくださったり、夫ともどもいろいろよくしていただいた。

みんなで一緒にカラオケに行ったこと、ことわざや四字熟語をいろいろ教えてもらったこと、「これは娘たちからの誕生日プレゼントなんだ」 と嬉しそうに手袋を見せてくれたこと、小児ガン患者のための毛髪寄贈について教えてくれたこと、家族旅行のアルバムを見せてくれたこと、私に유다미(ユ・ダミ)という韓国名をつけてくれたことなど、たくさんの思い出がよみがえる。

私が訃報を受け取ったのは25日朝。弔問に行く支度をして出勤した。職場の雰囲気もいつもとは違い、深い悲しみに包まれているような静寂さが漂っていた。

午前中の業務を終え、夫と落ち合って弔問に向かった。場所は釜山市内の大学病院付属の葬礼式場。韓国にはある程度の規模の病院にはたいてい葬礼式場が併設されている。上司は亡くなる直前は別の病院に入院されていたそうだが、市内から遠いところにあるため弔問客が訪問しにくいだろうと、この葬礼式場にご遺体を移されたそうだ。

葬礼式場にはいくつもの部屋が並んでいて、何人もが同時に葬礼を行えるようになっている。各部屋の前には白い菊の花輪がたくさん並べられていた。部屋の前に並べきれなかった花輪が、葬礼式場の建物の外にもあふれていた。上司の部屋の前には特に花輪が多いように見えた。生前の交友の広さ、人望の厚さがうかがえた。現釜山市長も弔問に訪れていた。

部屋の中には遺影が安置された祭壇のある小部屋と、飲んだり食べたりするためのテーブルが並べられた広間がある。まず祭壇のある小部屋へ。上司の遺影を見ると胸がいっぱいになり涙がとまらなかった。お若い頃の写真だ。とてもいい表情をされている。

そばで奥様やご兄弟が弔問客を迎えていた。一度お会いしただけだったが、奥様は私の顔を覚えていてくださった。生前、上司に本当にいろいろお世話になったのでお礼など伝えたかったのだが、言葉にならなかった。

葬礼式場には仕事では来たことがあったが、実際に弔問するのは初めてで、作法などよく分からない。「日本のやり方で構いませんよ」 とおっしゃってくださったので、そうさせてもらった。韓国では절(チョル)という独特の深いお辞儀をして弔意を表すが、私たちはお線香を上げて手を合わせた。お香典にあたる부의금(賻儀金=プウィグム)は、祭壇のそばに用意された 「賻儀函」 という箱に入れる。お棺は別室に安置されていて対面はできなかったが、写真の中で微笑む上司に最後のご挨拶をした。

日本では決まった時間に告別式を執り行うのが一般的だが、韓国では日本の告別式にあたるものはない。訃報には普通、亡くなった日時とともに발인(発引=出棺)の日時もあわせて記されるので、弔問客は出棺(たいてい早朝)までに葬礼式場を訪れて最後の別れをするという形式だ。各自、都合に合わせて何時に訪れてもよい(夜中でも)ことになっているので、時間の制約なく弔問できる。

葬礼式場には弔問客のための食事や飲み物が用意されているので、飲んだり食べたりしながら故人をしのぶ。日本では一般的に、親族やごく近しい人たちだけが集まってお骨揚げまでの間に一緒に食事をすることが多いが、韓国では基本的に弔問に来た人みなに食事を提供する。時間のない人は弔問だけすませて食事せずに帰り、一方では、故人をしのんでじっくりと語らう人たちもいる。

私たちは、一足先に弔問に訪れていた現在の上司たちと一緒に座って、飲み物をいただきながらしばらく過ごした。お宅に招待されたときに会ったお嬢さん2人の姿も見かけた。毛髪を寄贈するためばっさりと髪を切った下のお嬢さんの髪も、すっかりまた伸びていた。

弔問に訪れる人の列は絶えることがなく、みな早すぎる死を悼んでいた。奥様にもう1度ご挨拶して、私たちは式場を後にした。

その後、26日の午前5時30分頃、棺をのせた霊柩車は葬礼式場を出発し、20数年間勤務した新聞社の前を通って、故郷・山清郡の墓地へと向かったそうだ。そして今日、無事、葬礼を終えたという挨拶のメールが奥様から届いた。

部長、いろいろありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。ユ・ダミ



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