イ・スンシンの活躍と死 5

dilbelau

2012年06月19日 09:03

つづき

文禄の役の戦闘場面(▼)。この頃にはすっかり日も暮れ、字幕の文字もはっきり見えるようになっていた。







文禄の役で日本軍を追いやり、家族らと再会し喜ぶイ・スンシン(▼)。文禄の役での活躍を認められ、イ・スンシンは三道水軍統制使に任命された。





その後、1594年の第二次唐項浦海戦や場門浦・永登浦海戦で戦線は膠着。1597年に慶長の役の攻勢準備のために加藤清正が朝鮮へ着到することを小西行長の使者が朝鮮側に漏らし、朝鮮王朝は加藤清正の上陸を狙って攻撃するように李舜臣に攻撃を命令した。しかし李舜臣はこれを日本軍の罠と考えて独断で攻撃を実施しなかったため、朝鮮王朝内部では抗命を咎める声が大半となり、李舜臣は更迭され拷問を受けて一旦は死罪を宣告されたが、鄭琢の取りなしで一兵卒として白衣従軍を命じられた(▼)。



鎧かぶとなど身を守るものがないので、代わりに書籍を身につけさせるイ・スンシン。銃撃されたら書籍など何の役にも立たないと人々が信じなかったため、実際に試してみると銃弾は書籍を貫かなかった(▼)。



1597年に始まった慶長の役の中でイ・スンシンは命を落とす。彼の死を悼む人々。コブクソンの上に上がった白装束のイ・スンシンの場面でミュージカルは終幕。





つづく

関連記事