釜山生活「第2章」
2008年2月22日。大きな荷物とともに関釜フェリー(▼)から下船し、夫と釜山の地を踏んだ。私たちの釜山生活が始まった日だ。あれからもう4年が過ぎたとは。早いものだ。
夫は日本人教師として働いていた大学との契約期間が満了した。慣れない土地で新しい仕事を始めるのは容易ではなかっただろうが、日々教師としての仕事にやりがいを感じつつ、4年間の任務を無事に全うできたことは何よりだったと思う。
同じく私も働いていた新聞社との契約期間が満了、1月末をもって後任の方にバトンタッチした。昨年の1月3日から今年の1月31日までの1年1ヶ月、仕事をしながら本当にたくさんのことを学ばせてもらった。
特に、釜山市役所が発行している新聞 『ダイナミック釜山』 の翻訳(韓国語→日本語)作業では、日本語の難しさをあらためて実感するとともに、文章をつむいでいく楽しさや、新聞を作る作業に関わる喜びも体験させてもらった。
また新聞社の日本語HPでは、新聞記事を翻訳したり、または自分で記事を書いたりすることで、釜山や韓国に関する情報を発信するのも楽しかった。読者からのフィードバックがあればなおさらだ。
お給料をいただいて働いていたのだから、「仕事」 には違いないのだが、私にとっては仕事というより自己研鑽という意味合いが強かったように思う。韓国語はもちろん日本語の勉強にもなり、また韓国人上司らと一緒に働くことで韓国人の考え方や習慣などについて、それまで知らなかったこともたくさん学ぶところがあった。
日々楽しく仕事ができたのは、上司や同僚の配慮や助けがあったからこそ。周囲の人々のおかげで、非常に濃厚で充実した時間を過ごすことができた。
韓国に来た当初、私は韓国語がほとんどできなかった。挨拶やごく簡単な会話で精一杯。当時は、こうして韓国の会社でお給料をいただきながら働くなんて、想像すらできなかった。
振り返ってみると、私にはいつもちょうど良い目標が用意されていたと思う。韓国語の学校に通って勉強していた頃には、韓国語のスピーチ大会や作文大会に何度か参加した。学校の全過程を終了した後は、病院での日本語コーディネーターの仕事を紹介してもらい、またその後しばらくしてこの新聞社での仕事を紹介してもらった。
どれも、その時点での私の実力からすると、少し高いと思われるものだった。少し高い目標だが、手を伸ばしても絶対に届かないというほど高くもなく、頑張れば手が届くかもしれないというくらいの目標。
そういうチャンスがその時々に良いタイミングで目の前に現れ、そのたびに夫に励まされつつ挑戦し、いい手ごたえを得られることもあった。そういうことの積み重ねで少しずつ自信もついてき、韓国語学習のさらなるモチベーションにもつながったと思う。楽しみながら韓国語を勉強できるという、本当に恵まれた環境だった。
また、4年間の日々の中で欠かせなかったのはやはり夫の支えだった。嬉しいことがあれば一緒に喜んでくれ、岐路に立ったときにはさりげなく導いてくれ、私の仕事が忙しいときには進んで家事も手伝ってくれ、まさに蔭になり日向になり助け支えてくれた。感謝、感謝だ。
さて、2人とも仕事の面では第1段階が終わったが、次の段階へステップアップすべく、私たちは引き続き釜山で暮らすことにした。私たちの釜山生活の 「第2章」 が始まるのだ。これまでの4年間、大きな病気やケガもなく、楽しく毎日を送れたことに感謝しつつ、これからの釜山生活もめいっぱい楽しみたい。
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