'09.10.31(土)彼にとって祖国とは・・・

dilbelau

2009年10月31日 21:54

つづき

写真パネルを見て回っていると、それまで私が持っていた彼の人物像とは違ったイメージの姿も思い浮かんできた。

↓↓ 1950年、韓国に 「帰国」 する直前に日本で撮った家族写真。



↓↓ 「帰国」 時、港で大歓迎を受ける様子。



↓↓ 韓国の農業試験場で稲の苗を植える禹長春(우장춘)さん。



↓↓ 亡くなる前々日、病床で大韓民国文化褒章を受章する。



↓↓ 亡くなった後、お焼香をする夫人。



↓↓ 彼の死を伝える新聞記事。現在は横書き・ハングルのみ(ごくたまに漢字)で書かれている新聞だが、当時はまだ縦書きで漢字・ハングルまじり。



↓↓ 大勢の人が参列している、彼の葬儀。社会葬だったそうだ。遺体は農村振興庁内の麗妓山に埋葬されたのだそうだ。



私がそれまで持っていたイメージでは、父親が韓国人であるとはいえ母親は日本人で日本で生まれ育ち、日本人の妻と結婚して日本で6人の子供と幸せに暮らしていたところに、突如、食糧不足で苦しんでいる国民のために力を貸して欲しいと韓国政府から要請を受け、妻子を残して渡韓。朝鮮戦争に巻き込まれ、母の訃報を知り日本へ戻ることを望みながらも叶わず、家族と離れたまま韓国で亡くなり、さぞや無念だっただろうと想像していた。

しかし、先の記事にも書いたように、幼少時を過ごした施設で、からかわれながらも朝鮮人であるというアイデンティティーを捨てずにいたこと、論文発表などの際には、日本名の 「須永長春」 ではなく 「禹長春」 という名前を使い続けたことなどを見ても、彼の中では父の祖国である韓国が、自分にとっても祖国であるとも感じていたのかもしれないと、ふと思った。

この記念館では一貫して 「韓国人・禹長春」 として紹介されていた。

韓国人である父の血と日本人である母の血を半分ずつ受け継ぎ、日本で52年、韓国で9年を過ごした彼は、どのように感じていたのだろうか。
いわば2つの祖国を持ち、日本では愛する家族に囲まれ、韓国では国をあげて歓待され 「キムチの恩人」「韓国近代農業の父」 とたたえられた彼。記念館が面している道路は 「禹長春路」 と彼の名をとって名付けられている。

彼にとっての祖国とは、アイデンティティーとは、一体どんなものだったのだろう・・・。

禹長春記念館
釜山市東莱区長春2路5
(051) 550-4478 FAX (051) 556-6525
開館時間 9:30~18:00
定期休館 毎週月曜日、公休日の翌日、1月1日、陰暦の正月、陰暦のお盆


つづく

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